長者ヶ原遺跡|縄文時代のヒスイの原郷。全国のヒスイ製品はこの集落で作られた!?

ヒスイ製玉の製作地、長者ヶ原遺跡

新潟県糸魚川市内を流れる姫川の下流右岸。標高80mの丘陵上に縄文時代中期(紀元前3000年頃)の集落跡があります。長者ヶ原遺跡です。

長者ヶ原遺跡

南北180m、東西100mの楕円形をした集落で、中央の広場を囲うように、墓、住居、貯蔵穴、廃棄場が配置されています。東日本の縄文時代中期によく見られる環状集落でした。

20号住居(復元)
茅葺で復元されているが、土葺きだった可能性もあるとのこと。

丘陵の麓には姫川が流れ、下流側に2キロも下れば日本海に達します。集落の周辺にはクリやクルミなど落葉樹が育ち、集落脇の深い谷では湧き水も出ていました。木の実や魚介類などに恵まれた、食糧の豊かな集落だったことでしょう。

16号住居(復元)
竪穴住居の後背には縄文の森が広がり、谷部に下ると湧水。
湧水
集落東側の谷部から湧き出ている。

竪穴住居のほか、掘立柱建物跡も見つかっています。掘立建物跡は広場付近に築かれていることから集落全体に関わる共同の作業場ではないかと想定さています。

掘立柱建物(復元)
建物周辺には立石がいくつか見られる。

この遺跡ではヒスイ原石や製作途中(未成品)のヒスイ製玉が出土しているほか、製作のための道具類も見つかっています。このことから、長者ヶ原集落はヒスイ製玉の製造を行う工房集落だったようです。

ヒスイ輝石岩の産出地、小滝川ヒスイ峡

「ヒスイ」とは、ヒスイ輝石が集まってできたヒスイ輝石岩のことです。日本の考古学界隈では「硬玉」とも呼びます。ヒスイ輝石は、地球深部の変性作用(熱や圧力)を受けて5億年前に形成された鉱物で、それ自体は無色透明ですが、別の輝石が混ざることで緑色を放ちます。ヒスイは現在においても宝石として重宝されていますが、縄文人もまたこの緑色に魅せられ、装身具として身につけていました。

ヒスイ輝石岩はとても硬く割れにくい性質があり、成型するのがとても大変です。首飾りや耳飾りを作る大きさまで加工するには大変な時間がかかりました。食糧の狩猟・採集といった生業とは別に、装身具の製作に時間や労力を割く余裕が縄文時代中期のこの地域にはあったということです。

縄文時代のヒスイ原産地は日本で10か所程が知られていますが、中でも姫川産のものはもっとも質が高いと言われます。姫川支流の1つである小滝川上流域の峡谷(ヒスイ峡)にはいまでもヒスイ輝石岩の巨礫が見られます。

小滝川ヒスイ峡■国天然記念物

ヒスイ輝石岩はこの小滝川にのって姫川へと下り、さらに日本海の海岸(ヒスイ海岸)へと辿りつきました。長者ヶ原集落の縄文人は、ヒスイ峡谷やヒスイ海岸でヒスイ輝石岩を採取していたのでしょう。ヒスイ海岸西側の親不知海岸はいまでもヒスイの小石が見つかる場所として有名です。

親不知海岸

ヒスイ輝石は比重が大きいため、自力では地表まで浮上することができません。そこで、姫川のヒスイ輝石岩は比重の小さい蛇紋岩に混ざって地表まで上がってきたと考えられていて、ヒスイ輝石岩が見つかる場所では蛇紋岩もよく見られます。蛇紋岩も非常に硬い岩石のため、縄文時代は石斧として重宝されました。長者ヶ原集落では蛇紋岩製の石斧の製作も行われていたようです。

長者ヶ原集落から各地の集落へ

各地の縄文集落跡から出土するヒスイ製玉は、主に姫川産のヒスイ輝石岩が使われていることが分かっています。長者ヶ原集落をはじめ姫川周辺の工房で生産されたヒスイ製玉が、各地に流通していったようです。流通範囲は北陸、中部、関東を中心に東北や北海道まで、数百キロ以上の範囲に及びました。私たちが想像する以上に、縄文人は広域で活動を行っていたのです。

この時代の流通は、経済活動としての物々交換の結果ではなく、集落間の交流にともない相手方へ物を贈り合っていた結果ではないかと想定されています。こうした広範囲の交流の背景には、組織化された情報ネットワークもあったようです。複数の小集落を束ねる大規模集落がそのネットワークの中枢を担ったと考えられ、大規模集落のリーダーが別のリーダーとの交渉や情報交換に当たったのでしょう。

リーダーたちはヒスイ製玉などの装身具を贈り合い、またそれを身に着けていたようです。しかし、集落の一般構成員から抜きんでた財を持っていたわけではなく、リーダーの地位は固定的でもありませんでした。明確な階層社会に移行するのは弥生時代に入ってからだと見られています。

基本情報

  • 指定:国史跡「長者ヶ原遺跡」
  • 住所:新潟県糸魚川市大野
  • 施設:長者ケ原考古館(外部サイト)