渋谷向山古墳|九州征圧に乗り出した最初の天皇、景行天皇とは【天皇陵の畔で Part3】

渋谷向山古墳

柳本古墳群に含まれる渋谷向山古墳は、全長300mで全国8番目の大きさ。後円部の径は165m、前方部の最大幅は70m。すぐ近くにある行燈山古墳と同様、丘陵の先端を利用して築造されています。周堤は盾型で、行燈山古墳や宝来山古墳に比べると小規模。江戸時代の修陵工事によって綺麗に整備されたようですが、築造当時の様子と大きく変わっていないのではないでしょうか。合計10箇所で土堤が築かれており、何段にも渡って周濠が区画されています。周堤に立つと、墳丘との距離感が近く、王者の風格を間近に感じることができます。

景行天皇陵拝所
巨大な墳丘が近距離で迫りくる。

景行天皇

渋谷向山古墳の築造年代は、古墳時代前期後半(300年代後半)と推定されています。この古墳は、実在したと考えられている3番目の天皇、景行天皇の御陵として比定されています。景行天皇は、垂仁天皇の皇子で、日本書紀にはオオタラシヒコオシロワケ天皇の名で記載されています。古墳の築造年代から、300年代半ばから後半にかけて活躍した天皇だと見られます。

前方部
壕幅が狭いためにかえって墳丘の大きさを間近に感じられる。前方部北側角から撮影。

各地への行幸

景行天皇の時代には政治体制が安定してきたのか、近畿外への行幸が目立ちます。即位して4年目には美濃へ行幸。美濃は崇神天皇の皇子ヤサカノイリビコが治めており、その娘が大変美しいということで妃に迎えました。この妃、ヤサカノイリヒメは7男6女を産み、その中から次代の天皇になる皇子も現れます。

後円部北側周濠
北側の土堤の1つ。土堤の下には下段の周濠がある。西側を撮影。

晩年には、伊勢を経て、東海地方を巡り、関東方面まで行幸したとのこと。ヤマト政権の支配体制がこの地域まで浸透していたのでしょうか。崇神天皇と垂仁天皇のときとは異なって、景行天皇では大王家の内乱もなく、政権が確立しつつあったのかもしれません。こういう背景があって、天皇自らの九州遠征が始まるのです。

九州遠征

即位して12年目、景行天皇は九州の中・南部を支配する熊襲を討つため兵を起こしました。大和から西国に向けて進発し、周防国まで至った天皇は、まず九州東部に上陸するため先発隊を送ります。先発隊は、豊前の一地域を統治している女王を味方に引き入れ、周辺の王を誅殺することに成功。付近一帯を平定したのち天皇を迎え、ここに行宮をつくりました。この地(福岡県京都郡)には、いまでも京都(みやこ)という地名が残っています。その後南下して豊後地域の諸勢力との戦で一進一退しつつも勝利していき、その年の暮れには日向に到達しました。

後円部
後円部の裏手はすぐに竜王山が迫っており、丘陵の先端が古墳に造成されたことがよく分かる。後円部先端から撮影。

そしていよいよ熊襲の征討に向かいます。しかし、これまでの戦いで多くの兵を失っていた景行天皇は、正面から合戦を挑むのではなく、族長であるクマソタケルだけを謀殺する策を講じます。景行天皇はまず、クマソタケルの娘に多くの贈り物を贈って寵愛。手なづけられた娘は天皇の意を汲み、父親のクマソタケルに酒を飲ませて眠らせ、景行天皇の兵卒を手引しました。暗殺は成功し、族長を失って混乱した熊襲をことごとく征討、翌年5月には熊襲の領域一帯の平定を完了しました。しかし、今回の遠征は九州の中南部に限られたようで、北部九州の平定は景行天皇の後の世代に持ち越されたようです。

ヤマトタケル

景行天皇にはヤマトタケルと呼ばれる伝説的な皇子がいました。九州遠征のおよそ10年後、再び熊襲が反乱を起こしたとき、ヤマトタケルが遣わされ、皇子は見事反乱を鎮圧しました。さらに後、東国の東夷がヤマト政権に叛いたときにも、東国に赴きこれを平定しています。ヤマトタケルは東国からの帰還途中に病没してしまい、この悲劇的な最期によって伝説的な英雄になりました。しかし、ヤマトタケルは実在した人物とは見られていません。この英雄譚は、複数の人物による事績が統合され、ヤマトタケル一人の出来事として創作されたのではないかと考えられています。

前方部
南側の周濠は江戸時代に拡張されたのか、不自然な形状になっている。南側前方部角から撮影。

崇神、垂仁、景行の3代の時代に、ヤマト政権の支配領域は拡大し、その体制も安定しつつあったと見られます。そのことを示すように、3代の天皇は各地の豪族から娘を差し出させ、多くの子女をもうけました。皇子たちは各地に派遣されて統治を行い、やがて子孫はその地を支配する国造になっていきます。ヤマト政権の支配体制はこうして整っていったのです。

基本情報

  • 指定:陵墓「山邊道上陵」
  • 住所:奈良県天理市渋谷町