日本建築|古代の現存建築を巡る【奈良時代編 Part1】
奈良時代に平城京が置かれた街、奈良市。市内の寺院の多くは奈良時代から現代まで法灯をつなぎ、「古都奈良の文化財」として世界遺産にも登録されています。しかし、これらの世界遺産寺院も災害や兵火を経験しているため、奈良時代に建立された建築物の多くは失われてしまいました。今回は、奈良市内に残された数少ない奈良時代現存建築を巡ってみます。
仏塔
薬師寺東塔
薬師寺は、平城京への遷都とともに藤原京から移転された寺院です。そのため、奈良時代の前半には伽藍が完成していました。火災や地震で多くの堂宇を失いましたが、その中で東塔は唯一現存しており、平城京最古の建築となっています。高さ34mの三重塔で、その壮麗な姿から「凍れる音楽」とも称されます。六重に見えるのは各層につけられた小さな屋根(裳階)のためで、薬師寺東塔のみに見られる珍しい様式とのこと。
建立時の建築技術を反映する特徴が、屋根を支える組物に現れています。壁から外側に飛び出ている、人の腕ような木造物を組物と言い、東塔の組物は外側へ三段に積み重なって伸びているため「三手先」と呼ばれます。よく見ると、3手先目(一番外側)では、一本の木材が隣の組物同士を連結するように水平方向に渡されているのに対して、2手先目は天井から斜め下方向に飛び出ている尾垂木を支えているだけで水平方向の連結はありません。これは奈良時代前半の建築の特徴ですが、これでは水平方向に屋根の軒を支える力が不足し、構造上の課題が残っていました。奈良時代後半に建立される寺院ではこの課題が解決されるため、薬師寺東塔は奈良時代前半の特徴をいまに残しているのです。
奈良時代の建物は屋根の勾配が緩やかなのが特徴ですが、雨が溜まりやすいため、最上層の屋根だけは改良によって勾配が急になっています。その他にも細かな修復と改良が加えられました。2009年から創建以来初めての全解体が行われ、部材の入れ替えや補強を経て、2021年に竣工、再び奈良時代の壮麗な姿で佇んでいます。
海龍王寺小塔
聖武天皇の皇后・光明子が建立したとされる海龍王寺には、屋内に安置するための小さな五重塔が現存しています。高さ4mの小塔は一見するとただの模型のようにも見えますが、実際の建築様式にならって部材を組み上げており、「美術工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定された奈良時代唯一の現存五重塔です。薬師寺東塔の少し後に建立されたと見られていて、組物では1手先目の斗の直上にさらに斗を乗せるようになっており、薬師寺東塔とわずかに異なっています。
金堂
唐招提寺金堂
唐招提寺は、日本に授戒の制度を伝えるために招聘された鑑真による創建。伽藍の多くは奈良時代の後半に整えられました。奈良時代の金堂が現存している寺院は唐招提寺のみです。金堂は桁行7間、梁間4間の寄棟造り。寄棟造は格式の高い造りとして中国から日本に伝わりましたが、平安時代以降は入母屋造が主流になったため、寄棟造の現存建築は多くありません。
唐招提寺金堂では、正面1間分の柱間に壁がなく吹放しになっていますが、これは両脇から回廊が取り付いていた名残。回廊から直接金堂に上がれるようになっていたのです。飛鳥時代の寺院では回廊は講堂に取り付いていましたが、奈良時代には回廊が金堂に取り付くのが主流になります。このような変化が唐招提寺金堂の吹放しに現れています。
薬師寺東塔と同様に、金堂でも三手先と呼ばれる組物が使われていますが、2手先目には隣の組物と連結されるように一本の木材が渡されています。これが、奈良時代前半の課題を解決した技術的な進化で、通肘木と言います。薬師寺東塔から半世紀ほど進んだ奈良時代後半の特徴です。
屋根の大軒両端には鴟尾が置かれています。2000年から2009年にかけて行われた全解体修理で新しい鴟尾に交換されましたが、それまで西側にあった鴟尾は奈良時代の創建当初のものでした。下ろされた実物は、唐招提寺新宝蔵に保管されており、期間限定で見学することができます。奈良時代唯一の現存鴟尾として、平城宮大極殿や興福寺金堂の復元の際に参考とされました。井上靖の小説『天平の甍』では、物語の最後にこの鴟尾の話が出てきます。鑑真を招聘する苦難の道のりを描いたとても面白い小説なので、ぜひ読んでみてください。
講堂
唐招提寺講堂
奈良時代の講堂が現存している寺院も唐招提寺のみです。それだけでも貴重ですが、平城宮の唯一の遺構という意味でもとても重要な建物なのです。というのも、この講堂は、平城宮で東朝集殿として使われていた建物が唐招提寺に移築されたものだからです。その際に、屋根が切妻から入母屋に変更され、壁・窓・扉が正面や背面に新たに取り付けられて、仏教建築に相応しい姿に生まれ変わりました。さらに、鎌倉時代の大改修で屋根が高くなり、前面に向拝が付され、柱の一部が取り除かれたり新たに梁が加えれたりしました。江戸時代にも改良され、結果として奈良時代の創建時に近い現在の姿になりました。
鎌倉時代の改修のとき、梁や桁を支える部材にも手が加えられました。柱と柱の間には桁・梁を支えるための中備えと呼ばれる部材があります。唐招提寺講堂では、もともと使われていた間斗束の下に、蟇股が挿入され、高さの調整が行われました。手前の金堂では間斗束のみ使用されています。
門
東大寺転害門
聖武天皇が建立した東大寺では、南大門(鎌倉時代)や大仏殿(江戸時代)が有名ですが、伽藍の西側に奈良時代から現存する門がひっそりと佇んでいます。前後八本の柱で建っていることから八脚門と呼ばれる様式です。
特徴は屋根の内部に。下から見上げると、小さな棟が渡されており、外側と内側の双方に向けて垂木が下りています。反対側も同様になっており、断面で見ると垂木がM字になっているのです。この大棟と2本の小さな棟の造りを三棟造と呼びます。薬師寺の中門や回廊では、この三棟造を参考に復元されています。
転害門も鎌倉時代に改修されており、組物が変更されています。現在は一手分の腕が出ている一手先という組物が使われていますが、創建当時は外側に腕が出ない平三斗と言われる組物でした。組物を見ると、腕の先に舟のような形の部材が乗っています。腕の付け根にあたる柱の上にも似たような舟型の木材が乗っています。これらを肘木と言います。どちらも似たような舟型ですが、外側に出ている方が奈良時代のもので、腕の付け根の方が鎌倉時代に挿入されたものです。よく見ると、曲線の角度がやや異なっていることが分かります。
また、壁を支える部材として貫が入っていますが、こちらも鎌倉時代の改良時に加えられたもののようです。この改良が加えられたことで、奈良時代の建築物がいまの時代に現存することができたのです。
その他の奈良時代現存の門
倉
東大寺正倉院
大仏殿の裏手でひっそりと佇む正倉院。聖武天皇ゆかりの品々が保管されているということで、現在は宮内庁が管理しています。限られた時間にしか見学できず、しかも近づくことができませんが、遠巻きに見てもその巨大さを体感できます。歴史の重みも相まって、力強さを感じる建築です。
3つの倉庫を連結して1つの建物としており、両側の2つの倉が校倉造で、真ん中の倉は板をはめ込んだ壁になっています。校倉とは、断面が三角形の材(校木)を積み重ねて壁としている建築様式で、奈良時代や平安時代の倉で見られる様式です。
東大寺には正倉院の他に法華堂経庫、手向山神社宝庫、本坊経庫の3つが奈良時代から現存しており、すべて校倉造。法華堂経庫、手向山神社宝蔵はいつでも見学可能です。
唐招提寺経蔵・宝蔵
唐招提寺にも2つの倉が残されており、現在は2棟が南北に並んで建っています。南側の経蔵は、もともと皇族の邸宅にあったものを改造・移築したもので、このとき切妻造だったものが寄棟造に作り変えれたようです。東大寺正倉院よりも古い建立で、最古の校倉と言われています。
北側の宝蔵は唐招提寺建立のときに新たに築造された倉です。経蔵よりも一回り大きく、一番上の校木で軒を支える構造になっています(経蔵では、校木とは別に方形断面の木材で軒を支えている)。
その他の奈良時代現存の倉
その他仏堂
東大寺法華堂
東大寺の大仏殿から東向きに丘を登ると法華堂があります。不空羂索観音を祀る堂で、毎年3月に法華会が行われることから三月堂とも呼ばれます。
法華堂は特殊な形をしています。寄棟造の正堂に入母屋造の礼堂が付属した建築なのです。このような形態は奈良時代に「双堂(ならびどう)」と呼ばれました。礼堂は鎌倉時代の再建ですが、正堂は奈良時代の現存建築です。再建前の礼堂と正堂との間には隙間があったのでしょうか、現在も正堂には雨水を排水するための樋が残っています。また、中備え(梁や桁を支える部材)を比較すると、正堂では間斗束のみ使われていますが、礼堂では一部蟇股が使われています。
新薬師寺本堂
新薬師寺は、聖武天皇が眼病を患った際に光明皇后が平癒を祈願して建立した寺院。独特な表情をした薬師如来や、12体すべてが現存する十二神将で有名です。
本堂は桁行7間、梁間5間の入母屋造。奈良時代から現存する建物です。もともとは別の位置にあった仏堂でしたが、後に本堂として移転されたようです。ゆるやかな屋根の勾配が奈良時代の雰囲気をいまに残しています。
海龍王寺西金堂
塔のところで紹介した海龍王寺五重小塔は西金堂の中に安置されており、奈良時代の建立当初からその状態だったようです。この西金堂は鎌倉時代に大規模に改修にされていますが、部材の一部は奈良時代のもので、建築様式も当時を踏襲しているそうです。
「金堂」と名がついているものの、切妻造の屋根で、手先の出ない「平三斗(ひらみつと)」と呼ばれる組物が使われており、上で見てきた建築物に比べると、かなりシンプルです。
新薬師寺本堂もそうですが、内部に天井が張られていない建築物では屋根を支えるための内部構造をしっかり見ることができます。海龍王寺西金堂では、長短2種類の梁によって屋根の荷重を支えていることが分かります。梁と斗の間の蟇股は奈良時代から使用が始まり、時代とともに装飾性が高くなっていきますが、このような装飾のない蟇股は古式のものを示すそうです。
奈良時代の現存建築といっても、時代の流れの中で修復や改良が施されており、奈良時代の姿をそのまま残しているわけではありません。しかし、その度に最先端の技術が取り入れられたことで、現在まで倒壊することなく存続することができました。建築物の中に込められた技術の積み重ねそのものも、現存建築の価値の一つです。建築物の中に残された創建時のわずかな痕跡を探索することは、現存建築を巡るおもしろさになるのではないでしょうか。