新町遺跡|人骨が語る弥生時代早期。弥生文化はどのように受け入れられたか?

日本列島に稲作が伝来した弥生時代早期には、稲だけでなく、農耕具などの磨製石器や環濠集落の土木技術など様々なものが朝鮮半島からもたらされました。それらと一緒に、支石墓という新しい墓制も伝わります。この支石墓で有名な遺跡が、福岡県糸島市にある新町遺跡です。この遺跡から弥生時代早期の人骨が発見され、弥生文化がどのように日本に受け入れらたのか分かってきたのです。

弥生時代の人骨

これまでに日本各地で発掘された人骨から、縄文時代と弥生時代の骨格の違いが分かっています。

  • 縄文時代の人骨は広い顔幅で鼻が大きく、身長が低い(男性平均で158~159cm)
  • 弥生時代の人骨は面長で鼻が狭く、身長が高い(男性平均で162~163cm)

弥生時代の人骨は朝鮮半島に近い特徴を持っていたため、稲作などの弥生文化とともに朝鮮半島人が北部九州に移住し、弥生文化が全国に普及する過程で朝鮮半島系の人種が増えていったと考えられてきました。もともと日本列島に住んでいた縄文時代の人々は、外来の弥生文化に馴染めずに追いやられていったと想定されていたのです。

しかし、この想定の論拠となった研究は弥生時代中期以降の人骨にもとづくものでした。稲作の伝来した弥生時代早期の人骨は発見されておらず、実際のところ、稲作伝来当時の状況はよく分かっていなかったのです。そうした中、弥生時代早期の遺跡である新町遺跡から人骨が発見されたのでした。

支石墓

新町遺跡で発見された人骨は支石墓という墓に埋葬されていました。支石墓とは、遺体を土に埋めた後、墓標として大石を上に被せ、大石を支えるために複数の支石を噛ませる構造をとるものです。朝鮮半島の南部でよく見られるため、そこから伝来したと考えられています。

支石墓(復元)

支石墓の埋葬部は木棺で、木棺の近くに小さな壺が副葬されていました。この壺が弥生時代早期の土器であったため、稲作が伝来した同じ時期に支石墓も朝鮮半島から伝来したことが分かったのです。

支石墓の墓制は、弥生時代早期から前期にかけて九州の西北部(長崎県~福岡県西部)を中心に広がります。しかし、稲作が九州南部や本州へ広く普及・定着していったのに対し、支石墓は九州西北部から先では定着せず、弥生時代前期で消滅してしまいます。

このような特徴を持つ支石墓に埋葬された人々は、一体どのような人たちだったのでしょうか。

新町遺跡の人骨

新町遺跡は引津湾(ひきつ)に面した砂丘上にあります。砂丘に埋もれた人骨は、腐敗せずに良好な状態で残りやすい傾向があり、新町遺跡では17体の人骨が発見されました。

朝鮮半島から伝来した支石墓の人骨なので、朝鮮半島系の人が埋葬されていると予想されましたが、発見された人骨の特徴は低顔で平均身長が157cmと、縄文系の特徴を持っていたのです。そして、縄文時代の風習である抜歯の痕跡も確認されました。

この結果、弥生文化は、朝鮮半島からの移住者が一方的に普及させていったもののではなく、縄文人が積極的に受容し、自らの集団に定着させていったものだと分かってきたのです。

新町支石墓群(復元)

戦死者の人骨

新町遺跡からは、左太腿に石鏃が突き刺さった成人男性の人骨も発見されました。この骨には治癒反応が全く見られないことから、この男性は傷を受けてすぐに死亡したと考えられ、何者かとの戦闘によって殺されたのではないかと想定されています。

さらに、この男性人骨の下から小さな穴が見つかり、その穴から少年の歯が見つかりました。穴の大きさなどから頭部のみ埋められたと考えられます。弥生時代早期にはすでに、部族同士の争いが行われていたのでしょうか。

可也山を向く人骨

新町遺跡で発見された墓の多くは東の方向に向いており、副葬されていた壺も埋葬部の東側に置かれていました。遺跡の東側には「糸島富士」の異名を持つ可也山(かやさん)という山があり、この地域のランドマークとなっているそうです。弥生時代早期の人々も、可也山を神聖なシンボルとして信仰する習慣があったのかもしれません。

可也山

新町貝塚の人骨

新町支石墓群のすぐ近くには、縄文時代後期の遺跡、新町貝塚があります。そこでは縄文時代晩期の熟年女性の人骨が発見されました。その女性は、右腕に7個、左腕に14個の貝製腕輪をしていました。しかも、少女のときから腕輪をつけていたことが分かっています。

壊れやすい貝製の腕輪を、死ぬときまで身につけていた女性は、どのような人物なのでしょうか。食べ物を調理したり土器を作ったり手を動かす労働作業をしていたら貝製の腕輪は壊れてしまいます。そのため、なにか特殊な仕事を行っていたことが想定できます。例えば、祭祀などを司っていたとすれば、この女性は縄文時代の巫女だったのかもしれません。

新町遺跡は、引津湾に面しており、近くから縄文・弥生時代の漁労道具が多く出土することから、港湾集落であったと考えられています。もともと平地が少ない土地であり、稲作伝来後も漁労が中心の集落だったのでしょう。

引津湾

そこには、可也山へのアニミズムや漁の無事を祈る巫女たちの祭祀によって部族がまとまり、支石墓などの新たな文化を積極的に試してみようとする縄文系の人々の集落を想像することができます。

可也山と引津湾に挟まれた狭い平地に立ち、漁労中心の集落に思いを馳せると、弥生時代中期以降多く見られるような土地・水を巡る部族間の争いはなかなか想像できません。石鏃で傷を受けた男性は、部族間の争いで殺されたでのはなく、部族内でのちょっとした喧嘩の延長で死んでしまったのではないかと思ってしまいます。

基本情報

  • 指定:国史跡「新町支石墓群」
  • 住所:福岡県糸島市志摩新町
  • 施設:志摩歴史資料館(外部サイト)