箸墓古墳|いつ築造されたのか【卑弥呼の墓説に迫る Part2】

纏向遺跡で纏向型前方後円墳が築造されたあと、突如として巨大な箸墓古墳が築造され、その後、奈良盆地東部に巨大古墳が立て続けに築造された、という流れを見てきました。全長100m前後の纏向型前方後円墳に対して、全長280mもの箸墓古墳は「最古の巨大古墳」と呼ばれるようになったのです。では、この最古の巨大古墳はいったいいつ築造されたのでしょうか。今回は箸墓古墳の築造年代に直接迫っていきます。

争点はなにか

箸墓古墳の築造年代については、まだ確たる説がありません。文字史料の少ない古墳時代において、ある出来事の年代をぴったり言い当てることはとても困難です。そのため土器や金属器などの出土物から年代を推定することになり、「○年~○年」や「○年頃」というようなゆらぎを持つ宿命にあります。考古学者や歴史学者はこの宿命と戦いながら研究や調査を重ね、先史時代の解明に取り組んでいます。箸墓古墳の築造年代もその研究テーマの1つです。

箸墓古墳の築造年代に関する争点は「箸墓古墳から出土した土器をどう位置づけるか」です。箸墓古墳は陵墓のため、発掘調査が行われていませんが、陵墓指定から外れている周濠の調査が実施された際に土器が出土しています。その土器の型式は「布留0式」と言われいて、この点は多くの研究者でほぼ一致しています。

この「布留0式」は、古墳時代前期を示す布留式のような形状をしつつ、弥生時代後期を示す庄内式のようにまだ規格化されていない段階でもあり、庄内式か布留式かはっきりしない土器。そのために物議をかもしているのです。箸墓古墳の築造年代に関する様々な説は、この布留0式の土器をどの年代で捉えるか、それ次第と言っていいでしょう。今回はこの布留0式の捉え方に注目しながら、箸墓古墳の築造年代に関する3つの説を紐解いていきます。

説1:4世紀内(300年代)

「箸墓古墳は4世紀(300年代)に入って築造された」とする説では、箸墓古墳を古墳時代前期の枠組みの中に置きます。その理由は、

・布留0式の土器には、すでに高い規格化が見受けられ、庄内式(弥生時代後期)よりも布留式(古墳時代前期)の土器に近い。

とし、さらに、古墳時代前期を代表する西殿塚古墳と桜井茶臼山古墳の調査結果から、

  • 西殿塚古墳では、箸墓古墳出土の特殊器台とよく似た円筒埴輪が出土しているため、両古墳の築造年代は近い。
  • 桜井茶臼山古墳では、箸墓古墳と似た二重口縁壺が出土しているため、両古墳の築造年代は近い。

と考えているためです。上記3点を根拠に、箸墓古墳は古墳時代前期の古墳として捉えます。では、古墳時代前期はいつ始まったのか。

古墳時代前期の始期を考えるために、古墳時代中期に視点を進めます。古墳時代中期は誉田御廟山古墳(応神陵)など400m級の超巨大古墳が出現する時期で、その始まりは5世紀初め(400年代初め)と言われています。この点については、文献史料側からも考古資料側からもほぼ間違いないとされています。

この400年に軸足を置いて古墳時代前期の始期を考えると、築造技術において箸墓古墳とそれ以降の巨大古墳との間に大きな差異が認められないことから、100年以上の隔たりは想定しづらく(3世紀ではない)、4世紀内(300年代)のどこかに置くことになります。その結果、古墳時代前期の古墳である箸墓古墳の築造年代も4世紀内(300年代)と推定することになるわけです。

今では突飛な説に聞こえますが、これまで古墳時代の始まりは西暦300年代というのが定説だったので、むしろ従来の定説に回帰する考え方です。

説2:3世紀後半から末(270~290年)

「箸墓古墳は3世紀後半から末(270~290年)に築造された」とする説では、箸墓古墳を弥生時代後期の枠組みの中に置きます。その理由は、

  • 布留0式の土器は、庄内式土器に形状が似ている。

とし、さらに、弥生時代後期に誕生した纏向遺跡に関する事実から、

  • 纒向遺跡の庄内式土器によく似た土器が西日本各地にも見られるため、土器を広く普及させることができる巨大な勢力が纒向集落に誕生していた。
  • 纏向遺跡内に東海地方系や中国地方系の土器が多く出土するため、纒向集落は各地から土器を携えて人々が集うような交流の中心になっていた。
  • そのような場所に、全長100m前後の纏向型前方後円墳が築造され、その後、全長280mの箸墓古墳が築造された。

と考えているためです。この説では、弥生時代後期の奈良盆地に1つの巨大勢力があったことを想定して、纏向遺跡→纏向型前方後円墳→箸墓古墳という連続性の中に箸墓古墳を捉えます。

纒向遺跡は200年代前半に誕生した集落だと考えられています。この纒向遺跡の誕生を起点に据えると、築造技術において箸墓古墳とそれ以前の前方後円墳との間に大きな差異が認められないことから、箸墓古墳の築造までの間にやはり100年以上の隔たりは想定しがたく、箸墓古墳の築造を3世紀内(200年代)で捉えることになり、3世紀後半から末(270~290年)と推定することになるわけです。

説1と説2の違い

説1と説2の違いは以下のとおりです。

説2に対して説1では、

  • 纏向型前方後円墳と箸墓古墳では、規模や葺石の技術などから見て連続性がない
  • 日本列島内での土器の移動は、むしろ中心勢力が定まっていなかったため

などの異なる見方をしており、同じ現象の捉え方が180度異なっています。考古資料の解釈の難しさを感じさせます

説3:3世紀半ば(240~260年)

最後の説3は、説1や2のように箸墓前後の古墳や遺跡の様子から布留0式の年代を類推するのではなく、ずばり土器の年代を特定しようとします。そのために、炭素14年代測定法という科学的な手法を用います。

自然環境には、安定的な炭素原子と不安定な炭素原子の2種類の炭素原子があります。この不安定な炭素原子のことを「炭素14」と呼びます。空気中には安定な炭素と不安定な炭素14の割合がほぼ一定に保たれていて、空気中の炭素を二酸化炭素の形で取り込む植物も、空気中と同じ割合で2種類の炭素原子を持っています。

しかし、伐採されたり収穫された植物では、空気中の炭素の取り込みが終わります。すると、不安定である炭素14が体内から減っていく現象が起こります。この炭素14は特徴的な減少傾向をすることが分かっています。この特徴によって、植物体に残っている炭素14の数を計測することで、伐採後や収穫後にどのくらいの時間がたっているのか知ることができます

土器を使って米や粟などの植物を煮炊きすると、調理後の土器表面にすすこげが残ります。古墳から出土した土器には、この煤や焦などが付着したまま残っていることがあります。この煤や焦を試料として炭素14を計測することで、煮炊きされた植物が収穫されてからどのくらいの時間がたったのか分かり、土器の年代を特定することができます。

箸墓古墳の布留0式土器に付着していた煤を分析した結果、この煤が西暦240~260年のものだと分かり、布留0式の年代をずばり240~260年だと特定することができました。その結果、箸墓古墳の築造年代を3世紀半ば(240~260年)と推定することができました。

炭素14年代測定法は、土器の形状などから類推する方法に比べて正確な科学的方法に見えますが、以下のような指摘もあります。

  • どのような試料を分析するかで結果が変わる
  • 1800~1700年前程度の古墳時代を分析する手法として適切ではない

そのため、説3も定説化するには至っていません。

各説から何が言えるのか

以上、箸墓古墳築造の年代に関する3つの説を見てきました。これらの説にもとづくと、古墳時代はどのような時代だったと言えるのでしょうか。

説1での古墳時代

この説では、邪馬台国(180~260年頃)と箸墓古墳との間には関連性がなかったことになります。当然、卑弥呼の墓ではありません。ヤマト王権が4世紀に誕生し、それと同時に前方後円墳が誕生したという古墳時代像を描きます。

説2での古墳時代

この説では、邪馬台国と箸墓古墳は繋がっていた可能性が考えられます。しかし、卑弥呼が亡くなってから時間が空くので、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありません。邪馬台国の勢力がそのままヤマト政権になったとする考え方と、邪馬台国とは別の勢力が大和に誕生しヤマト王権になったとする考え方の2つがあります。

説3での古墳時代

この説では、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高くなります。そればかりか、卑弥呼や邪馬台国の時代にはすでに纏向型前方後円墳が築造されていたことなり、古墳時代を前倒しすることになります。そして、その邪馬台国の勢力がすなわちヤマト王権であるという考え方になります。

まとめ

以上、見てきたとおり、箸墓古墳の築造年代についてはまだ確定していません。そして、箸墓古墳の築造年代によって、箸墓古墳が誰の墓かだけでなく、邪馬台国とヤマト王権のつながりや、古墳時代の始まりの様相が大きく異なってくることが分かりました。

しかし、箸墓古墳の発掘調査が行われなければ考古学的な視点からの年代特定は難しい状況であり、炭素14年代測定法などの科学的な手法にも課題が残っています。正確な築造年代の判明にはまだまだ時間がかかりそうです。

とはいえ、自分の中でいずれかの説を採用し、邪馬台国の時代やその後の古墳時代の様相を想像することは、歴史の楽しみ方の1つです。中央公論社の日本史の通史シリーズ『日本の歴史1 神話から歴史へ』で井上光貞さんは次のように述べています。

この第1巻の対象と課題について、確実な、まちがいのない像を提供することは、おそらく不可能であろう。現在の学問段階においてばかりではない。おそらく永遠に不可能であろう。だから、この巻で描き出そうとする像は、今日の学問的水準の上にたっているつもりではあるが、けっきょくは「わたくしの古代像」であって、それ以上のものでは決してない。ただわたくしは、それぞれの箇所で、なぜ、あれこれの学説のなかからその説を選んだのか、なぜ、自分は自分なりにこういう像を描き出すのか、その道筋だけははっきり述べていこうとおもう。また、読者が自分で考えを進められる便宜をはかって、大事な史料と、欠くことのできない学説とは、あたえられた紙数の限度内において、だいたいは紹介しておきたいとおもう。読者が、この巻を批判的に読んでくださって、そこに読者自身の古代像をつくっていただくための産婆の役をいくらかでも果たすことができれば幸いである。

『日本の歴史1 神話から歴史へ』p.21(井上光貞)

どの説にもとづいてどういった「古代像」を構築するかは、私たち一人一人の歴史リテラシー次第です。歴史を楽しむためには、日々進歩する考古学や歴史学の知見を学び、正しい歴史像を描こうとする努力が必要なのかもしれません。

参考文献

  • 『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年初版)
    著者:関川尚功(橿原考古学研究所、2011年退職)
  • 『日本の歴史02 王権誕生』(2009年初版、原本2000年刊行)
    著者:寺沢薫(桜井市纏向学研究センター所長)
  • 『邪馬台国をとらえなおす』(2021年初版、原本2012年刊行)
    著者:大塚初重(明治大学大学院卒業、明治大学名誉教授)