須玖岡本遺跡|大国化を進めた、弥生時代中期後半の奴国王
須玖岡本遺跡
まだ日本が「倭」と呼ばれていた時代。中国の歴史書『漢書』では、「倭は百余国に分かれ、中国皇帝に朝貢してきている」と書かれています。弥生時代中期、それも後半頃に相当する時期のことです。
このときの様子は詳しくは書かれていませんが、倭の王たちは中国皇帝から鏡(前漢鏡)や貴重な装身具を下賜されたと見られます。日本に持ち帰られた鏡は、その国の王のもとで大切に扱われ、王の死後、棺の中に納められました。墓から鏡が出土したら、その墓には王が埋葬されていた可能性があります。そのような墓が、福岡県春日市の須玖岡本遺跡で見つかりました。
福岡県春日市は福岡平野の南端に位置し、弥生時代中期をとおして巨大な集落が営まれました。福岡平野には「那の津」などの名前がいまにも残ることから、この地は倭の国の1つ奴国の領域だったと見られ、須玖岡本遺跡は奴国の中枢拠点だったと考えられています。この遺跡の内で、特徴の異なる3つの墓域が発見されました。それぞれ王墓、王族墓、有力者層の墓域に該当すると想定されます。
王墓・奴国王が眠る墓
王墓と想定される甕棺は、長さ3.3、幅1.8m、厚さ0.3m、重さ4tの巨石の下に埋まっていました。発見された場所は現在では住宅地のど真ん中で更地になっていますが、甕棺を覆っていた巨石が奴国の丘歴史公園で展示されており、わずかながら弥生時代の空気を残しています。
甕棺の副葬品はほとんど散逸してしまっていますが、以下のようなものが副葬されていたとのこと。一つの墓に副葬されていた鏡としては破格の枚数です。これまでの研究では、鏡は弥生時代中期後半を示す前漢鏡だと推定されています。
- 鏡(30枚)
- 銅矛(5本)、銅剣(2本)、銅戈(1本)
- ガラス製勾玉(1個)、ガラス製管玉(12個)
- ガラス製璧片(へきの欠片)
また、周囲からは他の甕棺が見つかっていないことや周囲の道路が不自然に屈曲していることなどから、墳丘が築かれていたことが想定されています。これらのことから、この巨石下の甕棺は弥生中期後半の特定個人墓、つまり王墓だと考えられており、須玖岡本王墓と呼ばれています。鏡の枚数から推定するに、強大な勢力を持った王だったのでしょう。
王族墓・王の親族や重臣の者が眠る墓
王墓からほど近い場所にも墳丘墓が発見されました。墳丘内からは複数の甕棺が見つかり、鉄剣や銅剣などの副葬品が出土しました。甕棺の形状から、王墓と同じ弥生時代中期後半だと考えられています。王墓の近くであること、副葬品を持つ甕棺が多いことなどから、王に近い集団、つまり王族の墓域だと推定されています。
この墓域には、弥生後期の甕棺も発見され、中からガラス製勾玉やガラス製小玉などが出土しており、時期を変えて王族や有力者集団が埋葬されたことが想定されています。
有力者層墓域・王に仕えた有力者たちの墓
王墓や王族墓の場所から丘を登ったところに集団墓地が発見されました。現在、ドーム状の覆屋の下で一部が露出展示されています。ここでは、弥生中期後半の成人用の甕棺と小児用の甕棺が合わせて埋葬されていました。成人の甕棺の周りに子供用の甕棺を埋葬していた様子が分かります。甕棺だけでなく、木棺墓や土壙墓も発見されました。木棺墓には鉄剣が副葬されていたことから、ある程度の有力者層の墓域だと考えられます。
また、祭祀施設と思われる遺構も発見されています。遺構からはベンガラという赤色の顔料を塗って焼き上げた土器が発見され、祭祀に用いられたことが想定されています。
須玖岡本の王と王族たち
須玖岡本王墓の時代から少し下る弥生時代後期前半、『後漢書』の時代には中国皇帝が奴国の王に印綬を下賜した記録があります。このときの金印が福岡県福岡市で発見されており、その神々しさからは当時の奴国王の強大さを伺い知ることができます。
須玖岡本王墓の周辺には青銅器やガラス器の工房なども見つかっており、この地が一大工業地帯であったことが分かっています。これらの流通によって得た財が奴国の国力を支えていたのでしょう。須玖岡本遺跡に眠る王や王族たちは、後に奴国を中国から金印を与えられる程の大国へと成長させた立役者なのかもしれません。
基本情報
- 指定:国史跡「須玖岡本遺跡」
- 住所:福岡県春日市岡本
- 施設:奴国の丘歴史資料館(外部サイト)