楯築遺跡|弥生時代後期に築かれた吉備王の楯築墳丘墓

弥生時代後期、各地に大きな墳丘墓が築かれはじめました。この墓には、国(クニ)と呼ばれる広い地域を統治する王が埋葬されたようです。墳丘墓は単に土を盛っただけでなく外装も整えられ、その上ではなんらかの儀式を行った痕跡も残っていました。その先駆けとなった墳丘墓が、吉備のクニの王が眠っているとされる楯築墳丘墓です。

弥生時代後期

中国の歴史書によると、弥生時代後期の日本列島は、伊都国や奴国など国(クニ)と呼ばれる単位で分かれている状態でした。これらのクニを支配した首長(王)は、死後、小高く盛土された墳丘墓という墓に、豪華な副葬品とともに埋葬されたようです。このような墓を王墓と呼びます。

弥生時代後期の前半、王墓は北部九州にしか見られませんでしたが、後半になると瀬戸内や山陰地方など西日本にも築かれるようになります。王によって統治されるクニというまとまりが西日本にも広く誕生したようです。瀬戸内沿いの吉備地方にも突如として巨大な王墓が出現しました。それが総社平野の東端に築かれた楯築墳丘墓です。

楯築墳丘墓位置図|Google Earth(跡ナビ編纂室編集)

このころ、瀬戸内海の海岸線はもっと内陸にあり、山陽新幹線の沿線近くまで海岸線が来ていたと考えられています。特に総社平野の東端にあたる地域には、今でも「吉備津」や「津寺」という地名が残ることから、古代にはここに港が開かれ、港を管理する役所も置かれていたようです。弥生時代にもこの港に船が集まり、瀬戸内海をとおして九州や畿内と交易が行われていたことでしょう。足守川や高梁川をとおして山陰地方ともつながるこの地は、交通の要衝といえる地域だったのです。楯築墳丘墓に眠る王は、こうした特徴をもつ吉備のクニを支配していたと考えられます。

楯築墳丘墓の構造

楯築墳丘墓は、足守川の右岸に位置する西山丘陵上に築かれました。この独立丘陵は北から楯築山、王墓山、真宮山という3つの小山から成っていて、楯築墳丘墓は標高の最も高い楯築山(標高46m)に築かれています。丘陵からは総社平野の東部側を遠望できる位置でした。

総社平野東端|楯築墳丘墓から北側を撮影
中央を流れる川は足守川。弥生時代当時は、西側から高梁川が合流し、山陰地方ともつながっていた。

楯築墳丘墓は双方中円墳と呼ばれる独特な形状をしています。真ん中の円丘は楕円形をしており、長い方の径で49m。円丘からは南北それぞれに方形の突出部が延びていて、突出部を加えると全長約80mにもなったそうです。弥生時代の王墓としては破格の大きさでした。

残念なことに北側の突出部は宅地開発の際に削平されて残っておらず、形状や規模の実態は造成直前の緊急調査で分かりました。南側の突出部も給水塔建設にともない地下に埋め戻されていて、残された円丘部に立っても当時の様子に思いを馳せることはかなり難しいです。

北側突出部跡
宅地開発のため消失。わずかに列石が残る(写真右手)。
南側突出部跡
給水塔建設のため、盛土下に埋め戻されている・

墳丘の斜面には、墳丘をぐるりと囲うように列石が2段になって並べられ、その列石の間には円礫石(葺石)が敷き詰められていたようです。北側突出部の付け根に相当する部分に、上段の列石が3つだけ露出しています。

この葺石を敷き詰めた斜面には、立石と特殊器台が並べられました。立石は、いまでも斜面に転がったまま残っているものがあります。特殊器台は、吉備地方特有の筒型の土器で、高さ30cm程度の小型のものから1m程の大型のものまであり、墳丘墓の区画ごとに置き分けられていたと考えられています。

特殊器台・特殊壺|岡山大学考古資料展示室
小型のもの。南側突出部の突端に配置される傾向があった。器台(左)の上に壺(右)を置いていたと想定されている。

墳丘墓の斜面に葺石を敷いたり、立石や特殊器台を置いたりする行為は、楯築墳丘墓で初めて見られるものでした。

円丘の平坦面にも葺石が敷かれ、さらに点々と巨大な立石が並べられました。立石のうち最も大きなものは重さが6.3tもあり、いまも残っています。これらの立石は複数の場所から採石されたようで、石材と形状の分析から、北へ6km離れた山間部で採石されたのではないかと想定されています。この立石を並べる行為も楯築墳丘墓で突如誕生しました。どのような目的で使われたのか議論が続けられています。

墳頂列石
左から列石2、列石3、列石1。ストーンサークルを彷彿とさせるが、埋葬部はサークル内にはなく、サークル外(写真左手の空白地)にあった。

墳頂のちょうど真ん中には埋葬施設が作られました。埋葬部は、墓壙を掘ったあとに木槨を築き、そこに遺体を入れた木棺を安置したようです。木棺内には、30kgにも及ぶ朱が敷き詰められていました。棺内には翡翠製勾玉・瑪瑙製管玉・碧玉製管玉の3種の玉で作られた首飾り1つと鉄剣1本が、また棺外には碧玉製管玉の首飾りが副葬されていました。

出土品|岡山大学考古資料展示室
青緑色の碧玉製管玉からなる首飾りは棺内に、濃暗緑色の碧玉製管玉からなる首飾りは棺外に副葬されていた。土製の人形と玉は、埋葬後の石積み内から出土。

木槨と木棺が地中に埋められた後は、上から円礫堆と呼ばれる積石がなされました。この円礫堆に交じる出土物の重なりから、埋葬後にどのような儀式が行われたのか推測されています。

まず、弧帯文石と呼ばれる大きな石が安置され、焼き割られました。この石には曲線を帯状に束ねたような独特な文様が丁寧に彫られていて、儀式において重要な意味があったようです。割られていない完形のものも発見され、楯築神社の御神体として近くの保管庫に祀られています。

次に、饗宴で使われた高杯や壺などの土器を砕き、円礫石と一緒に盛られました。土器破片の接合状況から、饗宴は墳丘上とは別の場所で行われ、そこで破砕された破片の一部が墳丘上に持ち込まれたと見られています。

最後に、完形の特殊器台を置いて、その場で打ち砕かれました。このとき土製の人形なども砕かれたようです。埋葬部の近くには大きな木柱も立てられたようで、葬送に際して行われた儀式に関わるものだと想定されています。埋葬部ではこのような一連の儀式が行われ、王を葬送したと見られています。

楯築墳丘墓には、中心となる埋葬部のほかに、平坦面の南東隅に簡易なものが1つ、南側の突出部にも1つ、計3つの埋葬部があったことが分かっています。

楯築墳丘墓の意味

楯築墳丘墓が築かれた西山丘陵は、交通の要衝に位置していました。西側に広がる総社平野には集落が形成され人々が集住し、瀬戸内に流れ込む足守川を辿って北からも南からも多くの人が行き交ったことでしょう。多くの人が眺める丘陵の上に楯築墳丘墓は築かれます。そして、墳丘の斜面には葺石や列石を敷き詰め、さらに立石や特殊器台を並べて外装も整えました。人々に見られることを意識し、遠くからでも王墓とわかるように築造されたようです。単に「眺める」だけでなく、神格化された王を「崇める」意識もそこにはあったかもしれません。

また、これまでにない巨大な墳丘墓を築造するため、多くの人が土木作業に携わったことでしょう。巨石の運搬や土器製作には複数の集落が関わっていたことも推定されています。さらに、墳丘上で執り行われる葬送の儀式を、多くの人は墳丘下から見守ったはずです。饗宴に参加した人もいたことでしょう。

楯築墳丘墓では、築造の始めから終わりまで、そして築造された後も、多くの人が関わり、眺められ、崇められるように、そのための仕掛け(円礫石、列石、立石、特殊器台)や仕組み(土器製作や葬送儀式)を新たに生み出し、王墓に統合していったのです。この墓に眠る吉備の王は、多くの人を墓づくりに動員できるほど富をもたらしクニを豊かにしたことで、崇拝の対象として神格化されていったのかもしれません。

このあと、楯築墳丘墓の特徴(葺石や特殊器台など)は出雲地方に広がる一方で、大和地方にも波及して、やがて前方後円墳を産んだと考えられています、しかし、このとき吉備と大和との間にどのような人的な交流や情報の交換があったのかは、いまも多くの謎をはらんでいます。失ってしまった北側の突出部に、その謎を解く手がかりがあったのかもしれません。当時の姿から変わり果てた楯築墳丘墓で、吉備の王はなにも言わず眠ったままです。

基本情報

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