鬼ノ城|史書に記されなかった古代山城【瀬戸内の神籠石 Part4】

神籠石系山城は誰が、いつ、何のために築城したのか。前回は讃岐城山城をとおして「中大兄皇子が白村江敗戦後に唐軍防衛網の構築のため築城した」とする説を見てきました。今回は鬼ノ城を通して、別の説を見ていきます。

完成した古代山城

未完成ではないかと考えられている神籠石系山城がある一方で、城壁もほぼ完周して城門跡の遺構が良好に残り、城内から建物跡も発見されて須恵器や墨書土器なども出土している山城もあります。こうした城は、ちゃんと完成し、実際にしばらくの間利用されたと考えられます。完成した神籠石系山城はどのようなものだったのでしょうか。城門について見てみましょう。

鬼ノ城西門復元
鬼ノ城西門復元

門の造りは掘立柱式でした。出入り口部分に敷石を施し、唐居敷を伴う門扉が据え付けられています。地中深くまで柱が埋め込まれた痕跡があることから、単層の門ではなく、二層か三層の門が想定されます。周辺から瓦が出土しないことは、屋根がなかったか、もしくは木造の屋根だったことを示すようです。防御性を高めるため、盾のようなものが設置されていたのかもしれません。奈良時代の隼人の盾の形状に、古墳から出土した鞍や埴輪のような紋様が描かれていたと想定されています。

鬼ノ城

鬼ノ城は、総社平野の北側に位置する鬼城山(標高397m)に築かれた神籠石系山城です。8合目あたりを全周2.8mに渡って土塁が巡る、鉢巻式の山城です。

南側眺望
鬼ノ城から望む総社平野には楯築遺跡、造山古墳、備中国分寺など弥生時代から奈良時代にかけての重要な遺跡が残る。

城門は、西門、南門、東門、北門の4つが確認されています。西・南・東の門からは平野部側を遠望できる位置に。北門は城の背面にあたります。

西門
西側の尾根ルートを塞ぐように大規模な城門が建っていた。西門から土塁でつながった先には角楼も築かれ、西側の防御を図っている。
南門
東門

西門を除いて3つの門は懸門(けんもん)と呼ばれる設計が採用されました。懸門とは、入り口部分に2m程度の段差を築くことで容易に入り口に登れない構造のことです。また、入り口を通過しても場内へ真っ直ぐに入り込めないように正面に岩盤を配する甕城(おうじょう)という構造もとっています。懸門と甕城は朝鮮半島由来の設計とのこと。

北門懸門
城外から城内に入るためには、梯子やスロープを入り口に掛ける必要があった。
東門甕城
入り口の先を岩盤が塞ぎ、容易に直進できないようになっている。

西門の近くには、見張り台のような建物跡が発見され、「角楼」と名付けられています。柱の間に石積みを行う特殊な造りでした。上屋の実態は不明ですが、床張りの物見台として復元されています。城の西側が尾根と繋がっているため、攻め手の侵攻経路になりうることから特に警戒されていたようです。

角楼

城壁の一部は石垣で築かれており、断崖絶壁に面して巧みに石積みがなされています。石垣は城下から見上げたときに目立つ位置に築かれ、特に東側突出部の「屏風折れの石垣」は総社平野からもよく見え、異様な威圧感を与えていたのではないでしょうか。

高石垣「屏風折れの石垣」

谷部を城壁が通る場合は石垣とともに水口(水門)が設けられました。鬼ノ城では、石垣の上部に水口を開き、その上に版築土塁を重ねるという特殊な構造が採用されています。水門の裏には貯水池が形成されているものもあるようです。

第1水門
第2水門

城壁の大部分は列石の上に版築土塁を築いたものです。土塁の天面は内側に低くなるよう傾斜が付けられていて、雨水をうまく流す仕組みがなされていることに加え、流水とともに土が流出しないように土塁の天面に敷石が施されています。敷石が見つかったのは、古代山城の中でも鬼ノ城だけです。

敷石

建物跡は7棟確認され、管理棟や倉庫が建っていたと考えられています。城内から硯などが出土していることから、官人たちがここで実際に執務を行っていたことが想定されます。その他、鍛冶工房跡が発見され、築城に使用された鉄斧などを製造していたと見られています。

建物跡
2✕6間の側柱建物跡で管理棟と推定される。
建物跡
3✕3間の総柱建物跡で倉庫と推定される。

「大宰・天武天皇時代・地方兵制の整備」説

天智天皇を継いで即位した天武天皇は日本の軍国化に力を入れました。「政治の要は軍事である」という天武天皇の詔(684年)は、白村江での敗戦と壬申の乱での勝利を経験したからこそ出たものでしょう。中央直属の軍団を意識した兵士の訓練を行うとともに、各地に赴任した国司をとおして地方の軍事力も掌握しようとしました。

以前の天智天皇の時代、地方では、大化の改新で設置された評(こおり)ごとに評司(こおりのつかさ)と呼ばれる官職を置き、これに在地の有力豪族を就任させて統治に当たらせていました。彼らは、配下の農民を徴兵して軍団を形成することができ、白村江の戦いにも自軍を率いて出陣しています。天智天皇時代の軍制は地方豪族に負うところが大きかったのです。

しかし、天武天皇の時代には評司の上に国司を置き、さらに大宰や総領と呼ばれる広域行政官を設置して中央から官人を派遣することで、地方を直接統治するようになります。これら大宰・総領や国司をとおして地方豪族の持つ軍事力を中央政府のもとに吸い上げることにしました。天武天皇は、豪族が私邸に保管していた武器を召し上げ、評家(評司の役所)に集めるように命じ、武器を公的に管理することとしたのです。こうして、地方豪族は私的に行使できる軍事力を失い、大宰・総領や国司が軍事力を握る新たな兵制が整っていきました。

大宰・総領の想定管轄地域と神籠石系山城|Google Earth(跡ナビ編纂室編集)

この大宰・総領は、吉備大宰(吉備・播磨)、伊予総領(伊予・讃岐)、周防総領(周防・長門)、筑紫大宰(筑紫・豊・火)の4官がおり、彼らの統治エリアは神籠石系山城が分布する地域と同じです。神籠石系山城は、地方の兵制を整備する一環で大宰や総領によって築かれ、軍事拠点として利用されたのではないでしょうか。天武天皇の時代、鬼ノ城が位置する吉備地方の大宰には石川王という人物が就任していたと史書に記されており、まさにこの石川王によって鬼ノ城が築かれたのかもしれません。

鬼ノ城をとおして「大宰・天武天皇時代・地方兵制の整備」説を見てきました。鬼ノ城では7世紀後半から8世紀前半の土器が出土しています。城壁は完周し、城門も完成していたと見られ、内部では建物跡も発見され、土器も多数出土していることから、実際に利用された完成形の城であることがほぼ確かです。鬼ノ城ほどの立派な山城は、そして全ての神籠石系山城は、いったい誰が、いつ、何のために築城したのでしょうか。今回見てきた4つの説の中に果たして真実はあるのでしょうか。

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