天龍寺庭園|後醍醐天皇の鎮魂を祈る名勝。南北朝時代はいかにして始まったか?

後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒

1336年から始まるとされる南北朝の対立は、鎌倉時代の後嵯峨天皇(1242年即位)を発端とします。後嵯峨天皇には久仁親王(兄)と恒仁親王(弟)の2人の皇子がいました。御嵯峨天皇は自身が院政を行うために、まだ若年だった久仁親王に譲位し(後深草天皇)、上皇となったのちに本当に愛していた恒仁親王に譲位させ(亀山天皇)、以降は亀山天皇の皇統に継がせようと後宇多天皇が即位することになります。

天皇系図

しかし、これに不満をもった後深草上皇は鎌倉幕府の介入を求め、後宇多天皇の次には自身の息子を即位させることに成功(伏見天皇)。以降は幕府の斡旋により、後深草天皇を祖とする「持明院統」と亀山天皇を祖とする「大覚寺統」とが交互に即位するという両統迭立が確立します。ちなみに、「大覚寺統」の由来は、後宇多天皇が嵐山にある大覚寺を御所としたからですが、後嵯峨天皇も嵐山に離宮を築き、のちに亀山天皇がこの離宮を相続しました。離宮はのちに天龍寺に改められ、境内には後嵯峨天皇と亀山天皇の御陵があります。

両統迭立の流れは、伏見天皇(持明院統)→後伏見天皇(持明院統)→後二条天皇(大覚寺統)→花園天皇(持明院統)と来て、次には邦良親王(大覚寺統)が即位するはずでした。しかし、まだ若年だったため、中継ぎとして1318年に後醍醐天皇(大覚寺統)が即位することになります。中継ぎの天皇は自分の子に譲位することが望まれていないのが通例。そこで、後醍醐天皇は鎌倉幕府に働きかけ、自分の子に皇統をつなげようと交渉します。しかし、幕府からはとりあってもらえず、次の天皇は持明院統の量仁親王(光厳天皇)に決まります。この決定に不満をもった後醍醐天皇は、この両統迭立の事態をも打破するため、倒幕を強く決意しました。

しかし最初の2回は実行前に露見し失敗に終わり、1333年、3回目に、幕府に不満をもつ御家人を糾合し、足利尊氏と楠木正成を京都の六波羅探題に、新田義貞を鎌倉にそれぞれ主力として攻め、ついに幕府を滅亡させました。最も重要な役割を果たしたのが足利尊氏です。足利氏は鎌倉幕府の中でも最有力の御家人でしたが、幕府内での権勢を誇る北条氏と御内人(北条氏の被官)に不満を募らせ、後醍醐側に寝返ったとされます。尊氏はもともと「高氏」でしたが、このときの武功により後醍醐天皇(尊治親王)から「尊」の字をもらいました。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立、そして南北朝時代へ

幕府滅亡後、後醍醐天皇は親政を開始します。これを一般に「建武の新政」と呼びます。しかし、この政策は倒幕に加わった御家人たちの期待に応えるものではなく、彼らの不満は募るばかりでした。そんな中(1335年)、滅ぼされた北条氏の遺児、北条時行が幕府再興を目指して挙兵するという事件が関東で起きます(中先代の乱)。足利尊氏はこの鎮圧のために征夷大将軍に任じるよう後醍醐天皇に要請しますが拒否され、尊氏は勅許がないまま関東へ出陣しました。尊氏の到着により乱は鎮圧され、尊氏は天皇の許可がないまま戦功のあった武士たちに恩賞を与えました。こうした動きに尊氏の離反を見てとった後醍醐天皇は、倒幕のもう一人の立役者、新田義貞に尊氏追討を命じます。ここに、足利尊氏と後醍醐天皇の対立は決定的となりました。

足利軍は、東海道を進軍してきた新田義貞を箱根の竹の下の戦いで壊走させ、その余勢をかって西上し、1336年1月に京都を占拠しました。いったん比叡山に逃亡した後醍醐天皇は北関東の北畠顕家に上洛を要請。怒涛の勢いで攻めあがってきた北畠軍に京を追われた足利尊氏は九州まで逃亡することになります。後醍醐天皇は京都に戻りました。

しかし、足利尊氏は九州で盛り返して再び上洛を開始します。後醍醐天皇は楠木正成を向かわせますが、正成は兵庫で尊氏に敗れ自害し、後醍醐天皇は再び比叡山へ逃亡しました。

京都に入った足利尊氏は後醍醐天皇と交渉し、後醍醐天皇が三種の神器を譲って持明院統の豊仁親王(光明天皇)に譲位することで和睦が成立しました。尊氏は建武式目を制定し、武家による政権を開始します。しかし、1336年12月に後醍醐天皇は京都を脱して吉野に向かい、ここで「光明天皇が持っている三種の神器は偽物であり、本物は自分が持っている」として、自らを正当な天皇と宣言しました。こうして、京都にある持明院統の北朝と吉野にある大覚寺統の南朝とが並立する南北朝時代が始まるのです。

翌1337年以降、南朝は各地で兵をあげ、京都を奪還しようとしますが、1338年6月に新田義貞と北畠顕家がともに敗死。南朝は主力となる武将を失ったことで軍事的に大きく劣勢に立たされました。足利尊氏はこの戦勝を見届け、8月に満を持して征夷大将軍に就任し、室町幕府を開設しました。後醍醐天皇もその翌年1339年に52歳で崩御。死の間際、後醍醐天皇は「玉骨は吉野にあったとしても、魂は京都の天を臨んでいる」と言葉を残し、最期に至るまで自らの正当性を主張し京都奪還を諦めませんでした。

後醍醐天皇のために建立された天龍寺

後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏は亀山天皇の離宮に禅寺を創建することにしました。この寺が天龍寺です。後醍醐天皇と足利尊氏双方と親交のあった夢窓疎石の助言があったと言われます。夢窓疎石は中国への留学経験はないものの、幅広い層から支持を集め、後醍醐天皇からは「国師号」を賜るほどの博識でした。天龍寺造営の費用を捻出するために、「天龍寺船」と呼ばれる貿易船を元(中国)に派遣したのも夢窓疎石でした。作庭家としても著名で、禅寺庭園の完成者としても知られます。天龍寺庭園は世界遺産にも登録され、夢窓疎石の最高傑作の1つです。

天龍寺庭園を見学するためには、拝観受付の場所からぐるっと迂回して方丈の裏に向かうのですが、回り込んだ先で目に飛び込んでくる庭園の美しさには、思わず言葉を失ってしまいます。

天龍寺庭園正面

庭園は「曹源池」と呼ばれる池を中心とした池泉回遊式。左手に嵐山、右手遠くに愛宕山を借景とする構成になっており、夢窓疎石自らが選んだとされる植栽が嵐山・愛宕山と曹源池とを自然なグラデーションでつないでいます。

天龍寺庭園左手|南側
奥の山が嵐山。
天龍寺庭園|北側
写真右手の建物は書院。遠方にうっすらと愛宕山が見える。

池の手前は緩やかな汀線を描き、所どこにアクセントとなる巨石が配されています。さらに3つの出島が伸び、右手には亀島が置かれ石橋が渡されています。

3つの出島
手前に大きな出島があり、その奥と対岸にも出島が。左手の建物は大方丈。
亀島

しかし、この庭園の一番の見どころは、池の反対側中央にある石組です。かつてこの石組には水が流れており、滝になっていました。石組を構成する石の1つは滝をさかのぼる鯉を擬しており、「鯉魚石」と呼ばれます。こういった滝石組は、鯉が滝を登りきると龍になるという中国の故事を表現しており、天龍寺のものが初例と言われます。以降「龍門瀑(りゅうもんばく)」として多くの庭園で取り入れられました。

龍門瀑

庭園が当時の景観をそのままに残す一方で、その他の堂宇は応仁・文明の乱や戦国時代の戦乱によって焼失し、明治期以降に建て替えられたものです。その中でも、多宝殿は後醍醐天皇が吉野に営んだ御所の紫宸殿を模したものと言われ、南北朝時代の趣が感じられる建物です。

ところで、通常の禅宗寺院は伽藍が南面するのが一般的ですが、天龍寺は東面しており、総門から西側に法堂、方丈と並びます。そのため、方丈から庭園を眺めると西向きになるわけですが、これは西方浄土を表す浄土庭園の要素も併せ持っていたからだと言われます。後醍醐天皇だけでなく、後醍醐天皇のもとで戦死した新田義貞、楠木正成、畠山顕家をはじめ多くの武士たちの鎮魂の意が込められていたのです。

しかし南北朝の内乱がする終結までには、夢窓疎石(1351年没)や足利尊氏(1358年没)の死後、なお30年以上を要したのです。

基本情報

  • 指定:国史跡「天龍寺庭園」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
  • 施設:天龍寺(外部サイト)