石人山古墳|筑紫君一族の墓、八女古墳群を歩く【Part1 広川群】
527年、継体天皇に対して反乱を起した筑紫君磐井。その一族や重臣の墓だと想定されているのが八女古墳群です。この古墳群では、磐井の前代(古墳時代中期)から磐井の後裔(古墳時代後期)の古墳が林立し、多くが国史跡に指定されて良好な状態で保全されています。東西に延びる八女丘陵を西から東へ向かって歩きながら、古墳群を巡っていきましょう。
八女古墳群とは
八女古墳群は、筑後平野東部において東西に伸びる八女丘陵上に築かれています。大きく2群に大別され、西側を「広川群」、東側を「八女群」と呼びます。八女群はさらに4つの小群に分かれ、西から「吉田小群」「釘崎小群」「立山山小群」「童男山小群」が位置しています。
石人山古墳
八女古墳群中、最も西側に位置する石人山古墳は全長107mの前方後円墳。5世紀前半の築造と考えられており、築造時期や古墳規模から、筑紫君磐井の祖父にあたる人物の古墳ではないかと見られています。現在は木々が茂っていて全体像を掴みづらいですが、階段が整備されていて墳頂に上ることができます。
前方部の建てられた祠の中に、武装石人が納られています。「石人山」という山の名称になっていることからも、古来民衆に知られた石造物だったのでしょう。古墳の守護者のように堂々と立っていました。
後円部はかなり削平さていて、平石積み横穴式石室がむき出しになっています。現在は保存のために建屋で覆われています。
石室の中を覗き込むと、組合せ式の家形石棺を見ることができます。寄棟づくりの家形で、妻側に窓を設け、棺蓋長辺側には直孤文が浮き彫りされています。石人山古墳の後、この型式の家形石棺は有明海沿岸部(火国の地域)の古墳にも見られるようになることから、火国を統治する首長たちと同盟が結ばれていたのではないかとも想定されています。
弘化谷古墳
石人山古墳の裏手に回って階段を登ると、弘化谷古墳があります。この古墳は、果樹園造成の際に発見され、急遽保全が図られました。6世紀中ばの築造された径39mの円墳です。
石室の一部は破壊されてしまいましたが、石屋形付きの横穴式石室が発見されました。石屋形とは玄室内に遺体を安置するための構造物で、火国(熊本県)が発祥地です。やはり火国との同盟関係は6世紀に入っても続いていたのでしょう。石室内には装飾も施されており、双脚輪状文と呼ばれる九州地方に特徴的な装飾文様が描かれていました。
次の記事
基本情報
- 指定:国史跡「八女古墳群(石人山古墳・弘化谷古墳)」
- 住所:福岡県八女郡広川町一條 外
- 施設:広川町古墳公園資料館(外部サイト)