乗場古墳|筑紫君一族の墓、八女古墳群を歩く【Part2 八女群・吉田小群】

石人山古墳と弘化谷古墳を含む広川群から東側へ向かい、茶畑の中を進むと八女群を構成する古墳が現れます。八女群は4つの小群に分かれ、西から「吉田小群」「釘崎小群」「立山山小群」「童男山小群」から構成されます。前回に引き続き、西から東に向かって八女群の吉田小群を歩きます。

下茶屋古墳

八女群吉田小群のもっとも西側に位置するのは下茶屋古墳(未指定)。径30mの円墳で7世紀前半の築造です。

下茶屋古墳

この地方の横穴式石室は、玄室と前室の複室構造が特徴ですが、下茶屋古墳の石室は玄室、中室、前室の3室構造をしています。側壁は巨大な一枚岩で造られており、被葬者の権力の大きさが伺いしれます。

下茶屋古墳石室前室部分
下茶屋古墳石室中室・玄室

岩戸山古墳

下茶屋古墳のすぐに近くには岩戸山古墳があります。全長138mの前方後円墳で、6世紀前半に築造されました。「磐井の乱」の首謀者、言わずと知れた筑紫君磐井の墓です。

岩戸山古墳

乗場古墳

岩戸山古墳のすぐのちに築かれたとされる古墳が、すぐ東側にある乗場古墳です。全長70mの前方後円墳で、6世紀半ばの築造とされます。

乗場古墳|左側が後円部、右側が前方部

石室内部は見学不可ですが、複室構造の横穴式石室とのこと。装飾も確認されているようです。

乗場古墳前方部|後円部から撮影
乗場古墳後円部

善蔵塚古墳

乗場古墳からさらに東へ進むと善蔵塚古墳が現れます。このあたりは、八女丘陵の中でも見通しのよいところで、北側の耳納山系と南側の筑肥山系に挟まれた平野部を眺めることができます。筑紫君一族はこのあたりの平野を拠点にしていたのかもしれません。

耳納山系
筑肥山系

善蔵塚古墳は全長90mの前方後円墳。岩戸山古墳と同時期の6世紀前半の築造です。

善蔵塚古墳|前方部側を撮影

石室の調査は行われておらず詳細は不明です。

善蔵塚古墳前方部|後円部墳頂から撮影
善蔵塚古墳後円部|前方部墳頂から撮影

丸山塚古墳

善蔵塚古墳のほど近くに丸山塚古墳があります。6世紀後半に築造された径30mの円墳です。複室構造の横穴式石室と内部の装飾が確認されています。

丸山塚古墳

茶臼塚古墳

丸山塚古墳の近くには、茶臼塚古墳という同じ時期(6世紀後半)の円墳(径24m)も。盗掘を受けており詳細は不明です。

茶臼塚古墳

鶴見山古墳

臼塚古墳から東に歩くと、果樹園の中に鶴見山古墳があります。全長85mの前方後円墳で、6世紀半ば~後半の築造と考えられています。

鶴見山古墳|後円部側を撮影

残念ながら前方部の半分が果樹園によって破壊を受けており、史跡指定はありません。複室構造の横穴式石室が確認されており、堂々とした武装石人も発見されています。

鶴見山古墳前方部|後円部墳頂から撮影
鶴見山古墳出土武装石人■重文・古墳時代|岩戸山歴史文化交流館

吉田小群では大型の前方後円墳が多く見られ、それらは筑紫君一族の墓だと想定されています。特に、鶴見山古墳は筑紫君葛子の古墳だとも想定されています。葛子は磐井の息子で、「磐井の乱」の後に糟屋屯倉をヤマト王権に献上することで死罪を免れました。葛子の墓には乗場古墳との説もありましたが、最近は鶴見山古墳が有力のようです。

筑紫君一族はヤマト王権に反旗を翻し、そして敗れてしまいましたが、その後も100m近い大型の前方後円墳を築き続けていたのです。葛子以降も筑紫国に一定規模の勢力を維持していたことがうかがわれます。

基本情報

  • 指定:国指定「八女古墳群(岩戸山古墳・乗場古墳・善蔵塚古墳・丸山塚古墳・茶臼塚古墳)」
  • 住所:福岡県八女市吉田 外
  • 施設:岩戸山歴史文化交流館(外部サイト)