吉野ヶ里遺跡|吉野ヶ里歴史公園内の展示施設で見る、吉野ヶ里集落の墓の変遷

吉野ヶ里は、弥生時代前期から後期に渡って発展を続けた集落です。遺跡からは3,000基に及ぶ甕棺が発見されており、集落内で大規模な墓地が形成されていました。文字資料のないこの時代において、墓は弥生人の痕跡を色濃く残す重要な考古資料。墓の中の人骨や副葬品から集落の様子を推定することもできるのです。

公園内の展示施設

国営の歴史公園として整備された吉野ヶ里遺跡内には4つの展示施設があり、墓の出土物を含めて様々な考古資料を展示・解説しています。これらの展示施設を通して、吉野ヶ里集落内での墓の変遷を見ていきましょう。

吉野ヶ里遺跡展示室
遺跡内の出土物を広く展示・解説。
古代の森体験館
出土物の中でも主に植物資料を展示。周辺には、弥生時代の植生を目指して再現された森が広がる。
北墳丘墓内遺構展示
北墳丘墓内で出土した甕棺を当時の状態で遺構展示。墳丘墓の歴史や築造方法についても解説。
弥生くらし館
弥生人の暮らしについての展示。吉野ヶ里集落の復元模型あり。

吉野ヶ里集落の墓制

吉野ケ里集落での埋葬形態の多くは甕棺墓です。北部九州で多く見られる甕棺は、弥生時代前期から中期にかけて最盛期を迎えるものの、後期以降見られなくなります。吉野ヶ里遺跡でも、弥生時代前期末に出現し、全体で3,000基程の甕棺が確認されますが、やはり後期以降見られなくなります。遺跡の甕棺は、未発掘分も含めると15,000基程あるのではないかと想定されています。以下で詳しく見ていきましょう。

弥生時代前期末~中期初頭

前期末になると、20~30基程度の甕棺から成る墓地が集落内の各所で形成されはじめます。中期に入ると、集落北側に約600mに渡って1,000基にも渡る甕棺墓列が形成されました。

甕棺墓列

この甕棺墓列では、頭部のない人骨が発見されました。この人骨の鎖骨には短剣で刺されたかのような傷跡が残っており、集落間の戦の中で首を切り落とされたと想定されています。

頭部のない人骨|吉野ヶ里遺跡展示室

弥生時代中期初頭

集落南側の墓地で発見された甕棺からは、銅剣が出土しました。当時貴重な青銅器が副葬されたということは、有力者の墓だったのでしょうか。

銅剣|吉野ヶ里遺跡展示室(複製)

同じ時期、福岡県の吉武高木遺跡では、特定集団墓という有力者たちの墓が築かれていました。この墓では、1つの甕棺から銅鏡1枚、銅剣2本、銅戈1本、銅矛本1、翡翠製勾玉1個、碧玉製管玉など、豪華な副葬品が出土したことから、王とその近親の墓だと想定され、「最古の王墓」とも呼ばれています。吉武高木遺跡の甕棺と比べると、吉野ヶ里の副葬品は銅剣1本と少なく、王墓とは言えないでしょうが、集落のリーダー格にあたる人物なのは間違いないでしょう。

弥生時代中期前半~中半

集落の北側に巨大な墳丘墓が築かます。大きさは40m×27m、通称「北墳丘墓」。

北墳丘墓

墳丘内からは14基の成人用大型甕棺が発見されました。その内の8基から銅剣が出土。集落内の首長やその一族を集団で埋葬した「墳丘内特定集団墓」だと考えられます。

北墳丘墓復元模型|北墳丘墓展示館(縮尺1/50)
甕棺墓|北墳丘墓展示館

さらに、8基のうち1基には把頭飾付き有柄細型銅剣1本とガラス製管玉79個が副葬されていました。この最も豪華な甕棺には、最も集落を発展させた首長のものだと考えられます。

把頭飾付き有柄細型銅剣ガラス製管玉|北墳丘墓展示館(復元)
甕棺墓復元模型|北墳丘墓展示館

北墳丘墓の南側に接するように、甕棺墓群が形成されていました。これらは北墳丘墓と同時代のもので、首長たちに仕えた臣下たちの墓だと見られています。

甕棺墓列

弥生時代中期後半

北墳丘墓から西側に形成された墓地の中から、貝製の腕輪をつけた40~50代の女性人骨とともに銅鏡1枚と貝製腕輪36個が副葬された甕棺が発見されました。出土した銅鏡は前漢時代に中国で作られたと想定されるもの(前漢鏡)です。

前漢鏡|吉野ヶ里遺跡展示室
イモガイ製腕輪|吉野ヶ里遺跡展示室

また、貝製腕輪は奄美大島から沖縄にかけて生息するイモガイのものでした。この時期の吉野ヶ里集落は、九州南部の諸島とも交易を行っていたようです。腕輪は、幼い頃に腕を通して以降ずっと身につけていたと想定され、破損することなく数十年間も日常生活を送ったという事実は、彼女が特殊な生活環境で生きていたことを示しています。呪術的な効果のある銅鏡も副葬されていたことから、この女性は司祭者だったのではないかと想定されています。

同時代の奴国や伊都国では、須玖岡本王墓や三雲南小路王墓などの墳丘内特定個人墓が発見されています。これらの事例は、前漢鏡1枚とは比較にならないほどの豪華な副葬品が伴うことから、吉野ヶ里で発見されたこの熟年女性は「女王」と呼べるほどには権威を持っていなかったようです。

弥生時代後期以降

拠点集落内では墓地の形成が停止しました。周辺でも墓地は発見されていません(令和5年にこの時期と見られる石棺が発見されました)。一国の拠点集落と推定される吉野ヶ里集落ですが、集落を治めたであろう特定個人のための墓が見つからないのはなぜなのでしょうか。

吉野ヶ里歴史公園では、弥生時代後期の吉野ヶ里集落を治めていたのは女性司祭者だったと想定して復元整備されています。この時期に有名な女王・卑弥呼については、「倭国女王ではあったが邪馬台国女王ではなかった」「女王になって邪馬台国に住んだが他国出身だった」などが議論されていることからも、吉野ヶ里集落の女性司祭者が集落内の出身だったとは限らないわけです。そうなると、吉野ヶ里集落内に墓を作る必要もないことになります。そのあたりの背景が、吉野ヶ里集落内で特定の有力個人の墓が見つからない理由と関係するのかもしれません。

基本情報

  • 指定:特別史跡「吉野ヶ里遺跡」
  • 住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
  • 施設:吉野ヶ里歴史公園(外部リンク)