前期難波宮|孝徳天皇の長柄豊碕宮。大阪"難波"で始まる律令国家への第一歩

大阪の地形を象徴する"上町台地"

「上町台地(うえまちだいち)」という名前を聞いたことはありますか?大阪市を南北に走る台地のことで、市のシンボルでもある大阪城はこの台地の上に建っています。JR大阪城公園駅から青屋門を通って本丸に向かうと山里丸からグッと急坂になり、天守が高台に建っていることを体感できます。上町台地はこの大阪城を北限として住吉大社辺りまで南北に伸びていて、北側が最も標高が高く、南に向かうにつれ緩やかに下っていくような地形をしています。

河川の流路も変わり高層ビルが乱立した現在の景観からはとても想像できませんが、古代では上町台地のすぐ北に淀川が流れ、東には大和川の流れ込む湖が広がり、西には大阪湾がすぐにそこに面していたそうです。上町台地は南を除いて水域に囲まれた半島のような場所でした。

そのため上町台地の北端は、淀川や大和川を通して内陸への便が良いだけでなく、瀬戸内海と面して大陸とも繋がっているという交通の要衝でした。豊臣秀吉よりずっと昔の飛鳥時代に、こうした立地に目をつけてこの地に都を造った天皇がいます。その名を孝徳天皇といい、造られた都の王宮を難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや。通称「難波宮」)と呼びます。

この難波宮への最寄り駅は谷町四丁目駅(大阪メトロ)、天満橋駅(京阪電鉄)、森ノ宮駅(JR)になります。どの駅からもまずはゆるやかな登り坂になり、上町台地の地形を体感することできるでしょう。傾斜を登りきると大阪城から阪神高速を挟んで南側に大きな史跡公園があり、そこが難波宮跡です。

難波宮跡全景|大阪歴史博物館から南東を撮影
史跡公園の中央にある復元基壇は後期難波宮大極殿のもの。

遺跡は大きく二層からなっていて、下層が前期難波宮、上層が後期難波宮の遺構です。前期が飛鳥時代に孝徳天皇が造営したもの、後期が奈良時代に聖武天皇が造営したもので、公園では前期と後期をそれぞれ異なる表示で遺構を示しています。ここでは前期難波宮を示す赤茶色のタイルに注目していきましょう。

広大な朝庭を有する難波長柄豊碕宮

南側のこぢんまりとした入り口から公園の中に入ると、目の前には大きな広場が広がっていますが、ここが朝庭です。難波宮の特徴はなんといってもこの広大な朝庭をもつことです。

朝廷跡|北を撮影
正面に見える復元基壇は後期難波宮の大極殿のもの。

朝庭の東西には少なくとも各7棟ずつ計14棟以上の朝堂が並んでいたことが発見されており、公園ではそのうちの北側の3棟(計6棟)の表示がされています。

朝堂院西第一堂跡
朝堂院西第二堂跡
朝堂院西第三堂跡

朝庭と朝堂は回廊によって囲われています。後世「朝堂院」と呼ばれるようになるこのエリアは主に位の高い官人(有力豪族層)が政務を行う場所であり、重要な儀式のときに列席する空間でもありました。この広大な朝堂院をもつことが前期難波宮の画期的なところです。

朝堂院回廊跡|北を撮影

朝庭の最北には難波宮で最も大きな門があり、「内裏南門」「閤門(こうもん)」などと呼ばれています。後期難波宮の遺構表示と複雑に重なり合っていて分かりにくいのですが、後期難波宮大安殿の場所がちょうど内裏南門跡です。東西約30m×南北約12mの門で、飛鳥時代に建てられた王宮の中で最も大きな門でした。

内裏南門跡|北を撮影
一番手前の礎石表示は後期難波宮大極殿のもの。そこから尾廊によって後殿がつながる。この後殿と同じ位置に前期難波宮の内裏南門が建っていた。

左右には八角形の楼閣が取り付いていました。このような建物は史上類例がなく、いまのところ用途は不明です。「仏教関連の施設」か「時を告げる鐘楼」だったのではないかと見られています。

西八角楼跡|内裏南門跡から西を撮影

内裏南門から北側が天皇の空間「内裏」です。ここでは天皇が政務や日常生活を行いました。巨大な内裏前殿(東西9間約36m×南北5間約19m)に後殿が付属する建物だったようですが、現在は道路が走り、遺構の表示はありません。道路を挟んで北側にも内裏空間が広がっていたそうです。

前期難波宮内裏|大阪歴史博物館(模型)
内裏後殿より北側は発掘が行われておらず想像復元になる。

この南北に伸びる朝堂院・内裏が中心施設で、その東西に下級官人たちの執務エリアとして官衙が整備されていたようです。KKRホテル辺りが東限で、大阪歴史博物館辺りが西限と推定され、前期難波宮の範囲は小さくとも東西約600m・南北約530mはあったと考えられています。

難波宮で孝徳天皇が目指したものとは

乙巳の変(645年)を経て飛鳥の地で即位した孝徳天皇は、その年の末、難波への遷都を宣言して飛鳥を離れます。長柄豊碕宮が完成するまでいくつかの宮を転々とした後、白雉2年(651年)に正式に移り、翌年に王宮が完成しました。日本書紀には「その宮殿のありさまは、言葉では言いつくせないほどのものであった」と、これまでの飛鳥の王宮とは隔絶したものであることを強調しています。

前期難波宮朝堂院・内裏|大阪歴史博物館(模型)
前期難波宮ではまだ礎石立ち瓦葺きではなく、掘立柱の板葺き。写真左上の建物群は西側の官衙。

この間、孝徳天皇は冠位制を改正したり八省百官を置いたりと、官僚機構の整備に取り組みました。難波宮の広大な朝庭と14棟もの朝堂は、整然とした律令官僚組織を理想としたものだったのでしょう。また「公地公民」の理念を掲げ、皇親や豪族が独自に領有していた屯倉(みやけ)や部民(べみん)を解体し天皇のもとに集積していきました。難波宮のような広大な王宮を建設できた背景にはこうして天皇のもとに集積した富や労働力もあったでしょう。

さらに、白雉4年(653年)と5年(654年)、孝徳天皇は律令国家のお手本である中国の文化を摂取しようと遣唐使を派遣しました。難波宮が瀬戸内海に面した上町台地の上に築かれた一番の理由はここにあったのではないかと思います。このように孝徳天皇は官僚制や公民制の整備をとおして日本を律令国家たらしめようと強力に中央集権化を進めました。難波宮はその象徴であり拠点でもあったのです。

しかし、2回目の遣唐使を送った後ほどなくして孝徳天皇は病にかかり、快癒することなく崩じました。次に即位した斉明天皇は難波宮を放棄して再び飛鳥に戻り、翻って唐との戦争に乗り出していきます。難波宮は副都としてしばらく存続しましたが、天武天皇のとき(686年)に火災にあい、建物の多くは焼失してしまったようです。その後、奈良時代の聖武天皇のときに再び都となるという数奇な運命を辿っていきました。

基本情報

  • 指定:国史跡「難波宮跡」
  • 住所:大阪府大阪市中央区大手前
  • 施設:大阪歴史博物館(外部サイト)