長岡宮跡|桓武天皇の最初の王宮。平城京から平安京へ遷都した理由とは?
京都府向日市には、戸建民家の合間にいびつな形をした公園が点在しています。「大極殿公園」「朝堂院公園」といった名称を持つこれらの公園は、国指定の史跡。平城京から平安京までのわずか10年の間に日本の都となった長岡京の断片なのです。長岡京への遷都を強力に推進したのは桓武天皇でした。桓武天皇はなぜ遷都を行う必要があったのでしょうか。そして、なぜ長岡京はわずか10年で廃都になってしまったのでしょうか。
桓武天皇の即位
桓武天皇の父は光仁天皇です。光仁以前の天皇は、天武系と言われ、天武天皇の嫡系である天武→草壁→文武→聖武→孝謙(称徳)ラインを中心に、天武天皇の血を引く皇親が天皇位を継承していきました。
しかし、称徳天皇は子を持たなかった上に、後継者を指名せず崩御したため、公卿たちは話し合いで次期天皇を決めることになりました。その結果、天武の血を引かない白壁王が選ばれ、770年に光仁天皇として即位することになったのです。
光仁天皇には、他戸(おさべ)、山部(やまべ)、早良(さわら)の有力な男子が3人いましたが、天武系の井上内親王との間に生まれた他戸親王が皇太子になり、井上内親王は皇后の位につきました。このとき62才の光仁天皇に期待された役割はあくまで中継ぎ役であり、天武系の皇統を維持することでした。
しかし光仁天皇はこの流れを潔しとしなかったのか、自分の出自が天智系であることを強く打ち出します。まず、自分の父親である施基親王(しき)に「春日宮」という天皇位を授け、母親には皇太后位を追贈し、自分自身を天智→施基→光仁へと続く新しい皇統の中に位置付けようとしました。この動きに、井上皇后と他戸皇太子は疑心を募らせたことでしょう。不安を覚えた井上皇后は呪術師らを使って他戸皇太子の将来を占ったりしたのかもしれません。
彼女のこうした行為は他戸皇太子の失脚を望む者の目に止まり、「光仁天皇を呪詛している」と讒言されてしまうことになりました。2人は捕らえられ、幽閉先で死去してしまいます。その結果、一転して山部親王が皇太子となり、781年に桓武天皇として即位することになるのです。これに伴い、桓武天皇の同母弟である早良親王が立太子しました。
桓武天皇の遷都
桓武天皇にとって、皇位が転がりこんできたことはまさに青天の霹靂でした。桓武天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は渡来系の豪族の血を引いており、血統が重要だったこの時代に桓武が即位することはまずありえなかったからです。ところが、他戸皇太子の廃太子によって突如として天皇となったのです。
そのため桓武天皇は自分の血統に対してコンプレックスを持っていました。桓武は後々、自分の正当性を示すために、母・高野新笠に皇太后位を追贈し、自分自身が天智系の皇統であることを内外に示しています。
しかし、新しい皇統であることを最も分かりやすく知らしめるためには、新しい都を作るのが一番です。天智系の皇統を打ち立てる場所として、奈良はあまりにも天武系の色が濃い都でした。桓武天皇が遷都に着手した理由には、天武系の天皇が代々都とした平城京を去り、氏族や寺院などあらゆるしがらみを断ち切って、天智系のための新しい王都を造りたいという意識があったのでしょう。
では、新都をどこに造るか。奈良盆地に立地する平城京には、西側に奈良山がそびえており、水陸の便が悪いという現実的な課題がありました。このため、新しい都の地には、山陰道と山陽道が交わり、桂川・宇治川・木津川が淀川へ合流する場所が選ばれました。それが、山城国乙訓郡長岡村、いまの京都府向日市を中心とする地域です。
784年5月、桓武天皇は乙訓郡へ視察団を派遣。その翌月には造長岡宮司を任命し、事業が開始されました。この中には、藤原種継(たねつぐ)という藤原式家の有力者が含まれていました。桓武天皇からの信頼も厚く、彼の献策によって長岡の地が選ばれたともと言います。
桓武天皇の宮廷
この地には、向日丘陵(むこう)が北西から南東へ向けて長くなだらかに横たわっています。この「長い丘」が長岡の地名の由来です。京都河原町駅から阪急電車に乗って大阪梅田方面に向かうと、東向日駅と西向日駅の間を走る車窓から向日丘陵を眺めることができます。この丘陵の南端に長岡宮が造営されました。
長岡宮の造営は2段階で行われたそうです。まず、副都である難波宮の建物の移築を中心とした第1期(784年~786年頃)。次に、平城宮の建物の移築を中心とした第2期(789年頃~廃都まで)。このように、副都の解体から着手することで、遷都に対する反対の声を抑える狙いがあったと言います。
西向日駅を降りたすぐ目の前が朱雀通りで、朝堂院の南門(通称「会昌門」)につながります。
正門の南面には左右に楼閣が附属していたことが近年の発掘によって分かりました。平城宮応天門には楼閣はありませんが、平安宮応天門には楼閣がついています。難波宮にもなかったため、楼閣は新規で増築され、平安宮にも引き継がれたと考えられます。
門をくぐると朝堂院に入ります。長岡宮の朝堂院は難波宮から移築した八朝堂形式をとっています。現在では、西第四堂の基壇跡が盛土として復元されています。平城宮や平安宮は十二朝堂形式でした。
北に少し歩くと大極殿跡(だいごくでん)があります。造都が始まった784年の末には大極殿の移築が完了し、翌年の元日朝賀はすでに長岡宮で執り行われています。このときにも使用されたであろう宝幢(ほうとう。旗飾り)の柱根跡も見つかりました。宝幢とは、青龍・朱雀・白虎・玄武の4神に加え、鳥・日・月を描いた7本の旗で、古代中国伝来の儀式用旗飾りです。高さ9mにも及びます。長岡宮では7本のうち3本の跡が発見され、うち2本が復元されています。
大極殿の後方には、小安殿(しょうあんでん)という天皇の控えの間がありました。それらを取り囲む回廊の跡も見つかっています。
桓武天皇の憂慮
785年の元日朝賀まで順調に進んでいた長岡へと遷都ですが、その年の9月に事件が起こります。現場の監督にあたっていた藤原種継が何者かによって矢を射られ絶命してしまったのです。平城京に行幸していた桓武天皇はこの報を聞き、急ぎ帰京。信頼していた寵臣の死に、桓武はひどく悲しんだと言います。
迅速な捜査によって十数人の関係者が処刑されたことで一件落着かと思われましたが、ことは思わぬ方向に進んでいきました。事件関係者の中に春宮坊(とうぐうぼう)の官人が複数名含まれていたのです。春宮坊とは皇太子の家政機関のことですが、ここの官人は皇太子とも親しい関係を築くことができます。そのため、皇太子である早良親王は事件の裏で糸を引いていたではないかと疑いをかけられ、乙訓寺に幽閉されてしまいます。早良親王は絶食しながら無罪の主張しましたが、疑いは晴れず淡路国に配流される途中に息絶えてしまいます。
早良親王が事件に関与していたかどうか、もはや真相は闇の中です。桓武天皇には皇后乙牟漏(おとむろ)との間に安殿親王(あて。のちの平城天皇)が誕生していたため、弟の早良親王よりも、自身の息子である安殿親王へ確実に天皇位をつがせたかったのかもしれません。このあと、早良親王は怨霊として再び登場し、桓武天皇は晩年まで悩まされることになります。
造長岡宮司の中心人物だった藤原種継を流血事件で失ったことで、にわかに造都の進捗が悪くなりました。官吏たちが政務を行う場所である朝堂院が完成したのは、造都開始から2年後もたった786年です。このときはまだ宮都を囲う宮門さえも建っていない状態でした。平城宮の宮門が移築されたのはさらに5年後のことです。
桓武天皇の廃都
安殿親王が立太子して藤原種継暗殺事件を乗り越え、遷都の第2期がスタートした頃、桓武天皇の周辺で不幸が続きます。まず、788年に夫人・旅子(淳和天皇の母親)が死去。次いで789年に母・高野新笠が、さらに790年に皇后・乙牟漏(平城天皇と嵯峨天皇の母親)が死去しました。さらに、安殿皇太子が病に伏します。しかも、この病気の原因が早良親王の怨霊だとされたのです。
加えて、この年には飢饉に喘ぐ国が続出し、疫病の蔓延も起こりました。長岡京の南東境で発見された遺跡では、墨書人面土器や土馬が多量に見つかり、大規模な祭祀跡が想定されています。長岡京に住む人々が疫病を鎮めるために祭祀を行った様子が窺い知れます。
また、相次ぐ洪水により、長岡京の脆さも露呈しました。水運の便がよいということは、同時に川の氾濫にもさらされやすいということです。792年は雨が多く、8月に桂川が氾濫しました。桓武天皇は左京の赤日崎という場所から、氾濫する桂川の様子を思い詰めたように眺めていたと言います。相次ぐ不幸と都の欠陥。早良親王の怨霊にも悩みを募られせていた桓武天皇は、溢れ返る濁流が見つめながら、この長岡京を捨てて別の地に遷都する決心をしたのかもしれません。
次に選ばれた場所は、山城国葛野郡(かどの)の宇太村。ここに、千年の都・平安京が築かれます。793年、桓武天皇は長岡京内の離宮「東院」に移って、内裏や大極殿の移築に取りかかりました。そして、794年に平安京へ遷都。こうして長岡京は10年の都の歴史に幕を閉じたのでした。
基本情報
- 指定:国史跡「長岡宮跡」
- 住所:京都府向日市鶏冠井町
- 施設:向日市歴史資料館(外部サイト)