平原遺跡|出土品から想像する、平原王墓に眠る伊都国女王の姿

中国の歴史書『後漢書』には、西暦57年に奴国(ナ)が朝貢してきたので金印を下賜した旨が記されています。この記事から、弥生時代後期に突入する頃、主に北部九州のクニが中国大陸や朝鮮半島と外交を行っていたことが想定されます。弥生時代後期をとおして、これらクニグニは、邪馬台国を盟主とする倭国を形成していき、やがてヤマト政権のもとに統合されて古墳時代を迎えます。

この倭国の中で勢力を誇ったクニの1つが伊都国(イト)です。伊都国は、倭国の形成前から奴国と同様に独自の外交を行い、中国や朝鮮半島から青銅器、ガラス製品、鉄器、土器など様々な物資を輸入していました。そして倭国の形成後も外交や交易の中心拠点として重要な位置を占めました。

伊都国について、中国の歴史書『魏志』では「代々、王がいた」ことが記されています。倭国の中でも重要な地位を占めるだけに、当時の王は有能な政治家だったのでしょう。この伊都国王の墓だと見られているのが平原遺跡1号墓、通称「平原王墓」です。

平原遺跡1号墓

平原遺跡からは5基の墳丘墓が確認され、うち3基が弥生時代、2基は古墳時代のものでした。5基のうち1号墓の番号がついた墳丘墓は、14m×10mの最も大きい墓です。現在は埋められていますが、墳丘の周りには幅2m程の溝が取り囲んでいました。邪馬台国の時代(弥生時代後期後半)の墳丘墓だと見られています。

平原遺跡1号墓

埋葬部には人骨や棺などは残っていませんでしたが、豪華な副葬品がいくつも出土しました。他よりも大きな墳丘サイズと豪華な副葬品から、この平原遺跡1号墓は王の墓であると考えられています。そのため「平原王墓」とも呼ばれます。

副葬品

出土した副葬品はすべて国宝に指定されており、伊都国歴史博物館に展示されています。

銅鏡

埋められていた銅鏡はなんと40枚。弥生時代や古墳時代の墓から一度に出土した鏡の枚数では日本一と言われます。副葬されていた鏡の種類は大きく4種類でした。

  • (超大型)内向花文鏡(5枚)
  • 内向花文鏡(2枚)
  • 方格規矩四神鏡(32枚)
  • 四螭鏡(しち)(1枚)

特筆すべきは、超大型内向花文鏡です。直径46.5cmもあり、古代の鏡の中では日本一の大きさ。しかし、これらの鏡が中国で造られたのか日本で造られたのか、また、日本で造られた場合は誰が作ったのか、などは様々な説があり、定説がありません。

鏡の製作に関わる謎のほか、中国では出土しない謎の「陶氏作」銘や着色方法のわからない謎の緑色などもあり、今後の研究成果が期待されます。

装身具

鏡の他には、大量の装身具が埋葬されていました。これらは腕飾りや首飾りです。当時は貴重な宝飾品でした。

平原遺跡1号墓出土装身具■国宝・弥生時代|伊都国歴史博物館
左から、ガラス製勾玉、瑪瑙製管玉、ガラス製小玉。

武器

武器も埋葬されていましたが、素環頭大刀と呼ばれる鉄刀1本だけでした。

平原遺跡1号墓素環頭大刀■国宝・弥生時代|伊都国歴史博物館

伊都国王の人物像

副葬品の中に装身具が多く、かつ武器が少ないことから、平原王墓の被葬者は女性だと考えられています。伊都国の王は女王だったのです。この時代の有名な女王と言えば、邪馬台国の司祭者だった卑弥呼です。伊都国の女王も、卑弥呼のような司祭者だったのでしょうか。

ここでは、伊都国が外交や交易の拠点であったことを踏まえ、クレオパトラのような、知性があり、多言語を操る、美しい女性を想像します。「倭国」内で重要な地位を確保できたのは、伊都国の国力もさることながら、女王の知力あふれる政治手腕にもよるでしょう。また、長年の海外交渉の中で外国語に堪能だったことも想像できます。多くの鏡や装身具から、美的意識も高かったのではないでしょうか。

平原王墓の伊都国女王は、名前こそ残りませんでしたが、エジプトの古代女王に負けない有能な政治家だったのかもしれません。

基本情報

  • 指定:国史跡「曽根遺跡群・平原遺跡」
  • 住所:福岡県糸島市有田
  • 施設:伊都国歴史博物館(外部サイト)