保渡田古墳群|前方後円墳の祭祀を完全再現!6千基の埴輪が並べられた八幡塚古墳
埴輪の歴史は円筒埴輪から
一般的に「埴輪」というと人形のものを思い浮かべるかと思いますが、実は人形は埴輪史の中で最後に登場した埴輪だったということをご存知でしょうか。埴輪には「円筒埴輪」と「形象埴輪」の大きく2種類があり、埴輪の歴史はこの円筒埴輪から始まります。円筒埴輪は文字通り筒の形をしていて、弥生時代末期からすでに原型が使用され古墳時代が始まるとともに畿内から地方へ広く浸透していきます。当初は古墳の頂上部、特に埋葬部の周辺に並べられましたが、古墳時代前期の半ばからは古墳斜面の途中に設けられたテラスなどにも並べられるようになり、朝顔形のものや鰭付きのものなど形状のバリエーションも増えていきます。
古墳時代前期も終わり頃になると、円筒埴輪に加えて形象埴輪が畿内で現れます。最初に作られたのは「家形埴輪」や武具形や舟形などの「器財埴輪」で、古墳頂上部に配置されました。やがて古墳時代中期に入り、前方後円墳のくびれの部分に「造出(つくりだし)」と呼ばれるひな壇が設けられるようになると、その造出にも形象埴輪が置かれるようになります。円筒埴輪も形象埴輪も最初は古墳頂上部に配置されましたが、時代とともに下の方へ配置される傾向があるようです。
そして古墳時代中期後半(5世紀後半)になってようやく人形や動物形の形象埴輪が畿内の古墳に出現しました。人物埴輪には武人・巫女・力士など様々な種類があり、動物埴輪にも馬・猪・鹿など多様な形状が見られます。出土状況から、これらの人物・動物埴輪は特定の場面を表現するように配置されており、なんらかの物語を伝えていたようです。埴輪は古墳上で行われる祭祀や儀式に関係していると見られていますが、人物・動物埴輪はその祭祀・儀式の最も発展した最終形態として誕生したのです。
6000基の埴輪が立ち並ぶ八幡塚古墳
では、これら円筒埴輪や形象埴輪はどのようにして古墳に並べられたのでしょうか。その実例を、群馬県の保渡田古墳群・八幡塚古墳をとおして見てみたいと思います。八幡塚古墳は全長96m・三段築成の前方後円墳で、人物・動物埴輪が全国的に流行し始めた古墳時代中期末(5世紀末頃)に築かれました。徹底的な発掘調査が行われた結果、古墳時代当時の完成形で復元整備がなされており、古墳をビジュアルで体感するには八幡塚古墳をもって他にない、と言っても言い過ぎではないでしょう。古墳に配置されている埴輪はすべて復元品ですが、出土した実物の一部はすぐ近くのかみつけの里博物館に展示されています。
まず墳丘の上から見ていきます。頂上部を囲うように前方部から後円部にかけて円筒埴輪がぎっしりと並べられています。ひざ丈くらいの円筒埴輪10数本ごとにやや背の高い朝顔形埴輪が差し込まれていました。
この配列は中段と下段にも施されています。八幡塚古墳には周濠内に4つの島(中島)が造られていますが、ここにも同様に2種類の円筒埴輪の配列がありました。この古墳の基本となる配列のようです。
通常、人物・動物埴輪は造出に配置されますが、八幡塚古墳には造出がないので、代わって濠を囲む内堤に置かれました。内堤には円筒埴輪が2重に巡らされていて、その一角に54体の形象埴輪がまとまって置かれています。
前述のとおり、これらの配列はなにかの場面を表現していると想定されています。具体的には、古墳に眠る人物が生きていたときのシーンか、死後残った者たちが執り行った葬送のシーンか、そのどちらかだと考えられています。八幡塚古墳では生前に行われた狩猟や儀礼など7つの場面が表現されているのではないかと想定されていますが、真実は不明です。
内堤の外側には、円筒埴輪がまばらに配置された外堤があり、その前方部側にだけ盾形の器財埴輪に人の頭部を付けたものが挿入されています。前方部側には特別な意味があったのでしょうか。
八幡塚古墳に並べられた埴輪の数はなんと6000個です。墳丘そのものの築造だけでなく、埴輪の設置にも多大な労働力を投入する必要があります。粘土を採集して成型し、薪を伐採して窯で焼き上げ、古墳まで運搬し配列するという一連の工程には、多くの人が関与したことでしょう。
保渡田古墳群に埋葬された首長たち
八幡塚古墳が位置する保渡田古墳群には、他にも二子山古墳(108m)と薬師塚古墳(大部分削平・推定105m)という100m級の前方後円墳があり、古墳時代中期後半(5世紀後半)の間に二子山→八幡塚→薬師塚の順に築造されました。3基の前方後円墳に眠る人物はこの地域一帯を統治した首長たちだと見られ、代々統治権が移譲されていったようです。彼らは大量の埴輪生産を可能とする広大な領域を統治していただけでなく、畿内発祥の人物・動物埴輪をいち早く自域に取り入れることができるほど、ヤマト王権とも深い繋がりを維持できた人物でした。
彼ら首長の勢力はどれくらいの範囲にまで及んでいたのでしょうか。八幡塚古墳に並べられた埴輪の半分はここから15キロほど離れた鏑川流域の土が使われ、石棺は岩野谷丘陵の凝灰岩が使用されているそうなので、その辺りまでは勢力圏だったのかもしれません。
一方で、八幡塚古墳の築かれた古墳時代中期後半には群馬県西部(利根川から西側)を中心に100m前後の前方後円墳がいくつも築造されており、同程度の力を持った首長が並び立っていたとも考えられています。保渡田古墳群の首長たちは他を圧倒するほどの力まで持っていなかったようです。
しかも、古墳時代後期(6世紀)に入ってすぐ榛名山二ツ岳が大噴火を起したことで保渡田古墳群の周辺は大きな被害を受けました。古墳群周辺は火砕流や火山灰などで埋没し、首長の居館や民衆の集落はそのまま放棄されてしまいます。薬師塚古墳に続く古墳が築造されることはなく、首長の一族や民衆など生き残った者たちは別の場所に移住したようです。
実は、八幡塚古墳の埴輪が良好な状態で出土した背景にはこのとき火山灰に覆われ保護されたからです。保渡田古墳群が三代で終焉を迎えたのちも、火山災害のなかった地域では大型前方後円墳の築造が続き、6世紀をとおして多様な人物埴輪が作られるのでした。
基本情報
- 指定:国史跡「保渡田古墳群」
- 住所:群馬県高崎市保渡田町
- 施設:かみつけの里博物館(外部サイト)