多胡碑|グンジを務める人々の想い【上野三碑を巡る Part3】

郡司の仕事

奈良時代に入る少し前、文武天皇によって大宝律令が制定されました(701年)。この律令によって、日本全国は、国(クニ)>郡(コオリ)>郷(サト)という三階層の行政区分が整備され、国は国司が、郡は郡司が、郷は郷長がそれぞれ統治することになります。国が国力によって大国、上国、中国、下国とランクがあったように、郡もその下にある郷の数によって、大郡、上郡、中郡、下郡、小郡とランク分けされていました。1つの郷は50の戸から成っていて、当時は一戸あたりだいたい20人くらい住んでいたと想定されているので、大きな郡では1000人、小さな郡では100人ぐらいの人が暮らしていたようです。

郡司の仕事の中で最も重要なものが歴名の作成です。歴名とは戸籍の元となる住民名簿のことで、郡内各戸の構成員について、戸主との血縁関係、名前、年齢、身体的特徴(ほくろの有無など)などが記録されます。戸籍作成は6年に一度でしたが、歴名は毎年更新されました。郡司は、歴名の作成のほか、戸籍にもとづく租税の徴収を行ったり、郡内の訴訟の取り扱いや放生会や新嘗祭の執行などを行っていました。

上野国多胡郡正倉|多胡碑記念館(創造復元図)

一口に「郡司」と言っていますが、正確には大領、少領、主政、主帳の4つの役職があり、これらをまとめて郡司と呼んでいます。郡のランクに応じて人数が異なり、例えば大郡では大領・少領・主政3人・主帳3人の合計8人が郡司として働きましたが、小郡では大領・小領の区別はなく単に郡領1人と主帳1人の合計2人が職務に就きました。とは言え、郡域全体の仕事をこれだけの人数でさばいていたわけではなく、郡司の配下には雑任(ぞうとう)と呼ばれる人たちが多数いて下働きをしていました。彼らは「郡衙(ぐんが)」や「郡家(ぐうけ)」などと呼ばれる郡の役所で働いていました。役所の敷地には、郡庁や厨、正倉などが立ち並んでいたようです。

郡司の就任

国司には中央貴族が都から派遣されて就任した一方、郡司にはその地域の有力な豪族が就任しました。有力豪族の中でも、国造の一族を優先して採用することになっていました。国造とは、古墳時代に国の領域の統治を任された役職で、この職に就いていた豪族はその地で最も強大な勢力を誇った豪族でした。才能が同じ人物2名がいたら、歴史の古い一族の方を採用することになっていたのです。

郡司の一人が死去しポストが空くと、次期郡司の候補者は国司に引き連れられて上京し、試験を受けた後に天皇の裁可を経て正式に郡司に就任します。中央政府が郡司候補者をわざわざ上京させる理由は、天皇をはじめとする朝廷への服属意識を植え付けるためです。名門一族である郡司は郡内で大きな顔をしがちですが、こうして郡司就任前に上京させて天皇や中央貴族の前に引きずり出し拝礼させることで、一地方官にすぎないことを自覚させる狙いがあったのです。

多胡碑に記された郡司の姿

実際にどのような人物が郡司に就任したのか、郡司像の一端を示しているのが多胡碑です。多胡碑はいまの群馬県下にあった上野国多胡郡(たごのこおり)の建郡を記念して建てられた石碑。

多胡郡域
手前を流れる川は鏑川。奥の微丘陵地が多胡郡の郡衙跡。

現在は鏑川南岸の段丘上に保存されていて、近くから郡衙の一部(大規模な正倉の跡)も見つかったことから、当時からこの場所に立碑されたものだと想定されています。

多胡郡域|Google Earth(跡ナビ編纂室作成)

石碑には次のように記されています。「弁官局の命令。上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくる。(中略)郡の名は多胡郡とする。和銅四年三月九日付。左中弁・正五位下多治比真人。知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。」

多胡碑|多胡碑記念館(複製・正面)
砂岩を使用した石碑で、笠石・碑身・台石から構成され、碑身の高さは129cm、幅69cm、奥行62cm。実物は多胡碑記念館近くの保管室に展示されているが、訪問時は保存修理中のため見学できなかった。

碑文では和銅4年(711年)に新たに多胡郡がつくられたことが記されています。日本の正史である『続日本紀』和銅4年3月6日条にも「上野国の甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山(「山部」のこと)など六郷を割いて、新しく多胡郡を設けた」との記述が載せられています。

文字瓦「多胡碑織裳郷」|群馬県立歴史博物館(複製)

3月6日に知太政官事の穂積親王、左大臣の石上麻呂(いそのかみのまろ)、右大臣の藤原不比等(ふじわらのふひと)によって決定した内容が弁官局に伝えられ、左中弁の多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)が3月9日付の命令書にして、上野国に送付した、という流れでしょうか。6つの郷から300戸を割いたということから、一郷が50戸であったことも分かります。

多胡郡|多胡碑記念館(模型)

このように『続日本紀』の記述とも一致することから、石碑の内容はほぼ確かなのですが、上記で「中略」と書いた部分だけはいくつかの説があり、定説がありません。そこには「成給羊」と記されており、「羊」の解釈について「羊という人名説」「干支表記の方位説」「郡→群→羊の略記説」など様々な説が出ています。

多胡碑銘文|多胡碑記念館(複製)

人名説では、「羊」という渡来人に多胡郡を与えて郡司としたと解釈します。飛鳥時代以来、上野国には多くの朝鮮半島人が移住してきており、外来の文化が栄えた場所だったようです。有力な渡来人は大陸由来の行政手腕を駆使しながら郡司なども務めていたのかもしれません。初代多胡郡司となった羊は自分を顕彰するためにこの石碑を建てたのでしょうか。古墳時代からの名族ではありませんが、大陸由来の高い文化的素養を持った新興豪族として誇り高き郡司像が見えてきます。

一方で方位説や略記説では、初代多胡郡司は弁官局の命令を書き写しただけで、自分の名前を記さなかったことになります。碑文をよく読むと、左右大臣である石上麻呂や藤原不比等の名前を「尊(みこと)」という貴人の敬称を付けて記しています。企業で言えば、左右大臣が取締役クラスに相当するのに対して、多胡郡司は東山道支社・上野国支店に新設された多胡郡営業所の所長くらい。かなりの身分差があったからか、初代多胡郡司にとって大臣名と並べて自分の名前を刻むことに躊躇し憚ったのかもしれません。畏れ多くて恐縮している新任郡司の姿が想像できます。中央貴族にしてみれば、郡司就任にあたりわざわざ上京させて朝廷の威光を示した甲斐があったというわけです。

一族の誉れ高く自己を顕彰した人物か、突然の郡司就任にただただ恐縮していた人物か。初代多胡郡司はいったいどのような人物だったのでしょうか。やがて郡司は、郡内の富裕な農民に押され弱体化しはじめるだけでなく、国司の権限強化の中でその役割を失っていく運命にあります。

基本情報

  • 指定:特別史跡「多胡碑」
  • 住所:群馬県高崎市吉井町
  • 施設:多胡碑記念館(外部サイト)