水城|大宰府を守る古代最大の堤防
飛鳥時代の朝鮮半島
日本が飛鳥時代を迎えた7世紀、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の3国が鼎立する状態で、それぞれが互いに攻撃を仕掛け、領土の拡大を図ろうとしていました。高句麗は唐の驚異に晒されながらも百済と新羅への侵略を図り、百済は日本と関係を結びながら新羅に攻めこみ、新羅は唐を味方に付けつつ高句麗や百済を撃退していました。
大陸の唐は西側の民族と交戦しており、援軍を求める新羅に十分加勢することができずにいましたが、650年代後半になって事態は動きます。唐が西域を平定したことで、その強大な軍事力を朝鮮半島に投入し高句麗への攻撃をはじめたのです。そして660年、唐は10万の軍勢で海側から百済に攻撃し、それに呼応するように新羅が5万の軍勢で陸側から進撃。陸海から挟撃された百済は耐えきれずに敗北、滅亡に至ります。
白村江の敗戦
百済を攻略した唐軍は進行方向を北に向けて高句麗を攻めはじめました。この隙に、百済の残党が反撃を開始。城を奪取し、百済再起の体制を整えます。百済残党の動きを知った日本は百済に援軍を送る決断をします。およそ1万の第1軍が661年に渡海。翌年には2万7千の第2軍を戦線に送り込みました。
しかし663年8月、百済勢力と連携が取れなかった日本の軍勢は唐の海軍に壊滅的な打撃を受けて大敗。400艘の日本の軍船が炎上し、多くの兵が溺死しました。このとき、海水が血で染まったと言われています。これが「白村江の敗戦」です。日本軍の大敗に伴い、百済は再起叶わずこの世から消え去ってしまいました。
防衛体制の構築
敗戦を目の当たりにした中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)、中臣鎌足ら政府首脳にとっては、唐の侵略に備えるため急いで防衛体制を構築する必要がありました。彼らは次々と防衛策を講じていきます。
- 664年、対馬・壱岐・筑紫などを防人に守らせ、烽(とぶひ=狼煙のこと)を配備。さらに筑紫には、水城を築城
- 665年、長門に城を築かせ、さらに筑紫には大野城・基肄城を築城
- 667年、対馬に金田城、讃岐に屋嶋城、大和に高安城を築城
こうして北部九州の筑紫を中心とする軍事拠点が整えられるのです。
水城の築堤
防備施設の1つ、水城を見ていきましょう。
構造
水城とは、大宰府を防衛するために福岡平野南端に築かれた城壁です。博多湾からの唐軍侵攻に備え、四王寺山と牛頸山に挟まれた最も狭い部分を塞ぐようにして、全長約1.2kmに渡って築かれました。
水城の構造は、博多湾側から順に
- 外濠:幅60m
- 土塁:下層[幅80m]・上層[幅20m]
- 内濠:幅4.5~10m
となっており、総幅150mにもなる巨大な城壁でした。日本書紀には「筑紫に大堤を築きて、水を貯えしむ。名づけて水城という。」と記されており、外濠には水が貯えられていたようです。
土塁
土塁は上層と下層の二重構造でした。上層の高さは7~9mです。車道によって分断された箇所で断面を見ることができます。
土塁の築造には、朝鮮半島の最新技術が活用されました。まず、下層には「敷粗朶」という工法が採用されました。これは、土塁の安定性を増すために、樹木の枝葉を敷き並べながら土を盛っていく技法です。樹木には、アワブキやヤマビワなど現在でも付近で見られる樹種が使用されたようです。
次に、上層には「版築」という土木技術が採用されています。これは、板で囲った枠内に土を薄く盛り丁寧に突固めていく工法で、これを層状に繰り返すことで高く安定して盛土することができました。
木樋
外濠には水が貯えられていました。どのようにして水を貯めたのか、詳細はまだ解明されていませんが、内濠から木樋を通して外濠へ水を流し込んでいたと想定されています。東西に伸びる土塁の下で、内堀と外堀をつなぐように木樋が南北に直行していました。スギやヒノキ、クスノキなどの板材が使用されており、幅は約70cm。内濠部分には取水部があり、水を木樋に取り込んでいたと考えられています。
門
水城の東西にはそれぞれ官道が通っており、通用部分には門があったと考えられています。西側の門は狭く、壁面に石垣を築くなど、通用よりも防御を重視した構造でした。今も、当時の雰囲気をよく残しています。東側の門は車道によって大きく削平されており、当時の様子はわからなくなってしまっていますが、礎石が残っていました。
現在に残っている水城の遺構は主に土塁だけですが、土塁に沿って東西の両端まで歩くと、その防衛施設の巨大さを体感することができます。水城を築くためにどれだけ多くの労働力が投入されたのか思いを馳せると、中大兄皇子や中臣鎌足たちが持っていた、唐軍来襲に対する危機意識が伝わってくるようです。
現在の水城は、JR鹿児島本線、西鉄電車、九州自動車道、国道3号線などの交通路線によって分断されてしまっていますが、大宰府を守る砦としてその威容を示しつづけています。この巨大な水城が築かれた翌年、筑紫にはさらに、大野城・基肄城という2つの山城が築かれます。
基本情報
- 指定:特別史跡「水城跡」
- 住所:福岡県太宰府市吉松 外
- 施設:水城館(外部サイト)
見学のポイント
水城の遺構は御笠川によって寸断されているので、東側遺構と西側遺構の間を横断するためには大きく迂回する必要があります。公共交通機関を利用する場合はJR水城駅から、車を利用する場合は水城館近くの駐車場から散策を開始するのが便利です。水城館から東方面の住宅街を登ると東側遺構を遠望できる高台がありますが、展望台への階段入口が分かりにくいので注意してください。(Google Mapが示す階段入口からさらに車道を進み右に折れたところ)。