二条城|徳川秀忠と家光が大改修した狙いとは?後水尾天皇の寛永行幸

幕府にとって天皇の行幸とは?

いつの時代においても、天皇の外出(行幸=ぎょうこう)は畏れ多くも晴れやかな一大イベントです。それは、幕府が朝廷と並び立つようになった鎌倉時代以降においても変わらないことでした。特に、幕府将軍の邸宅への行幸を実現するためには、幕府方に最高レベルの権勢、経済力、調整力が求められました。その裏返しとして、自邸への行幸を実現できた事実は、自分の力量の大きさが証明されたことにもなるので、時の幕府権力者は天皇の行幸を効果的に利用したい思惑もありました。

しかし、天皇が幕府方に行幸した事例は史上6回しかありません。幕府が鎌倉に開かれていた鎌倉時代は全く行われておらず、幕府が京都にあった室町時代にもわずか3回(足利義満によって2回、義教によって1回)しか行われていません。織田信長は、安土城に正親町天皇を迎える意思があったのではないかとも言われていますが、実現しませんでした。

足利義教が実現した1437年の後花園天皇による室町殿への行幸以来、150年ぶりに自邸への天皇行幸を実現したのが豊臣秀吉でした。1588年の後陽成天皇による聚楽第行幸です。この時の行幸は、天皇の行列の先頭が聚楽第に到着したとき、最後尾はまだ御所を出発できていなかったと言うほどの大行列でした。聚楽第には、1592年豊臣秀次のときにも後陽成天皇による行幸がありました。

そして、天皇による幕府方への最期の行幸となるのが、1626年(寛永3年)の後水尾天皇による二条城行幸です。この行幸は徳川秀忠(大御所)と家光(3代将軍)によって実現しました。この行幸に際し、もともと徳川家康によって築かれていた二条城は西側に拡張され、既設の建物も大改修が行われました。いまの二条城はこのときの改修後の状態ですが、二条城東側(主に二の丸主郭)と二条城西側(主に本丸)では趣が全く異なっています。

装飾性豊かで優雅な景勝を誇る東側

二条城に入ってまず正面にあるのが、築地塀です。このタイプの塀が城郭で使われるのはとても珍しいことです。築地塀は古代から天皇宮、役所、寺院などで使われていたもので、現在では、京都御所の周囲にめぐらされているものが有名です。朝廷を象徴する塀とも言え、秀忠と家光は二条城に入った天皇が最初に目にする場所に築地塀を建てたのです。

築地塀■国重文・江戸時代
石の基壇のうえに土を突き固めて作った塀。城で用いられることは稀。
築地塀■国重文・江戸時代
塀の妻側は南北ともに飾金具が設えてある。

次は有名な唐門です。この門は家康築城時からあったそうですが、天皇の行幸に合わせて改修が行われました。前後に4本の脚をもつ格式の高い四脚門で、前後に唐破風が付き、屋根は檜皮葺。柱や梁には飾金具が取り付けられ、欄間にも彫刻が施されています。軍事的な要素は一切なく、完全に儀礼向きの門です。

唐門■国宝・江戸時代
家康築城時からあったものを天皇行幸時に改修されたが、後水尾天皇はこの門のさらに西側の門を使ったと想定される。
唐門■国宝・江戸時代
欄間には蝶、蛙、鶴などの彫刻が散りばめられ、装飾性豊か。

唐門をくぐると目の前にあるのは二の丸御殿。これは将軍家光の居所なので、後水尾天皇は利用しませんでした。天皇が滞在した行幸御殿は、ここから左手の塀の向こう側に築かれました。そのため、おそらく後水尾天皇は先ほどの唐門も通行しなかったのでしょう。奥に設けられた別の四脚門を通行して行幸御殿に入ったと想定されます。

二の丸御殿■国宝・江戸時代
徳川家光の居所。天皇行幸に合わせて建てられたものだが、その後改修されて今の姿になった。

塀中門を通って奥に向かうと、二の丸庭園です。家康築城時からここには庭園がありましたが、天皇行幸に合わせて改修が行われ、いまある見事な景勝地になりました。至る所に巨石が配された造りは、武家庭園らしさの表れとも言われます。二の丸御殿の大広間から庭園を眺めると、本丸の天守が借景となるよう作庭されていたそうです。行幸御殿は庭園の南側にあり、御殿からは御亭(おちん)が伸びていました。

二の丸庭園■特別名勝|南側
行幸に合わせて小堀遠州が作庭した庭園。行幸御殿は庭園の南側にあったため後水尾天皇は主に南から北を眺めていただろう。
二の丸庭園■特別名勝|北側
二の丸御殿大広間あたりからの眺望が最も映えるように作庭されたようだ。かつては天守が借景となっていた。

装飾性のない防御施設が立ち並ぶ西側

さて、主に天皇のために設計された東側から、西側に入ろうと思います。ここからは、これまでの優雅な空間とは打って変わって、城本来の軍事機能が随所に施されています。まずは、二の丸と本丸をつなぐ本丸東橋とその奥にたたずむ櫓門を見てください。櫓門の門部分はすべてが銅板で覆われて厳つい表情をしており、火器への備えも万全なものとなっています。

本丸櫓門■国重文・江戸時代
かつては二階橋になっており、天皇が地上を歩かずに本丸に登れるようになっていた。門扉のつくりは極めて頑丈であり、高い防御性を誇る。

この櫓門の2階部分に目を向けてみると、正面に窓がないことに気づきます。これは、この橋が2階建てだった名残です。実は、天皇の行幸時、天皇が地上を歩くことなく二の丸から本丸へ移動できるように、二の丸側の二重櫓(今はない)からこの橋の2階部分を通り、櫓門の2階部分に入ることができたのです。行幸後、橋の2階部分が撤去された際に、櫓の2階部分は漆喰で埋められたため、窓のない白壁になったそうです。

次に、東橋は渡らず、内堀の外周をぐるりと回ってみましょう。南北で対となった施設が多いので、北から(反時計回り)でも南から(時計回り)でも南北で比較する視点を忘れずに見学するのがポイントです。まず見えるのが、鳴子門(北側)と桃山門(南側)です。四脚門形式の鳴子門では格式が重視され、長屋門形式の桃山門では警固を重視したものになっています。北側は一般の武士たちの通用門、南側は行幸御殿と接続した門だったという違いがあるようです。

鳴子門■国重文・江戸時代|北側から撮影
薬医門(主柱2本と控柱2本)に見えるが、厳密には前面の庇が短い四脚門(主柱2本と控柱4本)とのこと。
桃山門■国重文・江戸時代|南側から撮影
長屋門形式の門だが、度々改修を受けた形跡があり、不明な点が多い。

さらに西側に進むと、中仕切門があります。ここは石垣によって食違虎口になっていて、敵が容易に突破できないようになっています。門は外側と内側でデザインが異なります。外側から見ると、冠木、柱、扉には鉄製の筋板が張られ、防備強化が図られていることが分かります。屋根は二重になっていますが、上の屋根と連続するように石垣上には土塀が築かれていたようで、埋門(うずみもん)のように見えたことでしょう。

北中仕切門■国重文・江戸時代|外側(南側)から撮影
南中仕切門■国重文・江戸時代|外側(北側)から撮影

一方で、内側には鉄板が張られておらず、一般的な薬医門のようにも見えます。

北中仕切門■国重文・江戸時代|内側(北側)から撮影
南中仕切門■国重文・江戸時代|内側(南側)から撮影

内堀の西面には、北側に三重櫓跡、南側に天守台があります。天守台にはかつて、後水尾天皇の行幸に合わせて伏見城の天守が移築されました。行幸の5日間のうち、後水尾天皇は2回もこの天守に登ったそうです。

三重櫓跡
天守台

内堀の西面には、米蔵が南北で2棟建っています。なんということもない土蔵に見えますが、城内に土蔵が残るのは二条城のみで、貴重な現存建築です。兵糧米の保管などに用いられました。

北米蔵■国重文・江戸時代
南米蔵■国重文・江戸時代

一周回ってもとの東橋まで戻ってきたら、橋を渡って本丸に入ってみましょう。本丸の上には大御所秀忠の居所として本丸御殿がありました。現在建っている御殿は明治時代になって移築されたものなので、江戸時代当時のものとは関係がありません。

本丸御殿■国重文・江戸時代
本丸御殿は秀忠の居所として建築された。今のものは明治時代に移築されたもの。

本丸で特筆すべきは、周囲すべてに雁木坂(がんぎざか)が巡らされている点です。雁木坂とは幅の広い石階段のこと。幅が広い分、多くの守備兵が一度に石垣の上に張り付くことでき、効率的に防衛に当たれます。ちなみに、本丸の石垣の上には周囲すべてに多門櫓が巡っており、防備を重視していたことが分かります。

本丸西辺の雁木坂
本丸南面の雁木坂

本丸と二の丸とは東橋とは別に西橋でも繋がっていました。本丸への通路はこの2か所しかなく、どちらも木橋だったため、2つの橋を落とせば、本丸への侵入を完全に遮断することができました。本丸西門の内側は完全な内桝形虎口となっていて、橋を落とさずとも高い防御力を誇りました。

本丸西門跡

江戸幕府と朝廷との関係

このように、二条城の東側が天皇を迎えるに相応しい雅な設えだったのに対して、西側は儀礼的なものが排され、戦闘に特化した施設が築かれていました。二の丸御殿の豪華な襖絵などに忘れてしまいがちですが、二条城を出る直前には監視のため番所が置かれ、外堀を超えて振り返れば、京都御所を向いた東大手門がそびえるなど、二条城はやはり戦闘を意識した構えになっているのです。幕府はいつだって朝廷を威圧していました。

番所■国重文・江戸時代
東大手門■国重文・江戸時代

江戸時代初期の徳川幕府は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、武家諸法度を設定し大名の支配体制を完成させると、次に朝廷の支配を目論み様々な施策を行いました。その1つが徳川家康による禁中並公家諸法度の制定(1615年)で、史上初めて天皇の行動を規定したほか、細かい点にまで朝廷に規制をかけました。この法度の公布はまさに二条城で行われました。

また、2代秀忠は、娘の和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ(1620年)、それにかこつけて、警固の名目で禁裏内に武士を配することに成功します。和子が入内の準備を行った場所は他でもない二条城でした。そして、後水尾天皇の二条城行幸(1626年)では、世が徳川の天下であることを改めて知らしめるとともに、軍事施設としての二条城の片鱗を天皇に見せつけて無言の圧をかけたのです。

行幸の後、後水尾天皇は幕府の意向と反する譲位を行い(1629年)、朝幕関係はぎくしゃくしたものになりましたが、結果的に、和子の娘・興子内親王が7歳で即位したことで(明正天皇=奈良時代の称徳天皇以降の女性天皇。家光の姪にあたる)、家光は期せずして天皇の外戚になります。

1634年(寛永11年)、家光は30万7千人の軍勢を従えて上洛し二条城に入りました。このとき、後水尾上皇の院領を1万石に加増するなど、家光は朝廷との融和を図ります。これを機に朝幕関係は安定期を迎えますが、それは幕府と朝廷との力量の差が確立したということでもありました。徳川将軍が上洛する必要はもはやなくなり、二条城は少しずつ廃れていったそうです。二条城が再び歴史の表舞台に出てくるのは、江戸時代が終わろうとする頃でした。

基本情報

  • 指定:国史跡「旧二条離宮」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市中京区二条城町