平等院|極楽浄土を再現した阿弥陀堂。藤原頼通が生きた摂関政治の最期

末法思想と浄土信仰の広がり

仏教によると、釈迦の入滅後には3つの時代区分(正法→像法→末法)があるとされています。最初は「正法(しょうほう)」で、仏法が生きて悟りをひらく者が現れつづけるという時代が1000年間続くとされます。次は「像法(ぞうほう)」で、仏法が形骸化して修行をしても悟りをひらけないという時代が1000年間。最後に、仏法が消滅して釈迦の教えが何だったのか分からなくなる「末法(まっぽう)」の時代が1万年も続くとされます。こういった時代観にもとづく思想が「末法思想」です。

末法の開始時期は、”天台宗の祖”最澄が1052年を、同じ天台宗でも横川の僧が1045年を、真言宗の僧が1065年を唱えるなど、当時から諸説がありました。おりしも、東国では1028年に「平忠常の乱」が勃発し、1051年に「前九年合戦」が始まるなど戦乱が続くほか、内裏の焼亡が相次ぎ、延暦寺僧徒の強訴が繰り返されるなど、平安貴族たちは世の乱れを否が応でも感じはじめていました。こうした事件を経て、末法の時代は1052年から始まるとする説が朝廷内に浸透していったのです。

この末法思想の広がりとは別に「浄土信仰」という思想が広がりを見せていました。「浄土(じょうど)」とは仏のいる清浄な世界のこと。これに対して、人間の欲と業にまみれた俗界を「穢土(えど)」と言い、「穢土を離れ(厭離穢土)、浄土を望む(欣求浄土)」思想が浄土信仰です。浄土信仰はまだまだ一宗として独立するには至っていませんでしたが、子や孫の栄達を望む平安貴族たちにとって、浄土に往生して子孫の繁栄を見届けたいという想いを捉えていきました。

浄土とは仏のいる世界のことで、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土、釈迦如来のいる霊山浄土などいくつかの種類があります。その中でも、当時大流行した『往生要集』(著:源信)で極楽往生が説かれていたことから、阿弥陀仏の西方極楽浄土への往生を貴族たちは願うようになりました。

末法思想と浄土信仰。当時は全く別々に起こったものでしたが、「末法の時代になり現世での救済がもはや望めないなら、せめて死後は極楽浄土へ往生したい」という思想へと一体化し、平安貴族の間に爆発的に広がっていきました。その第一人者が藤原道長です。彼は9体の阿弥陀仏を安置した阿弥陀堂(無量寿院。のちの法成寺)を建立するほど、極楽浄土への往生を強く望んだ貴族でした。

極楽浄土を見たければ、平等院の阿弥陀堂に行け

藤原道長の息子である頼通も例外ではなく、父から相続した宇治の別荘を「平等院」に改め、ここに阿弥陀仏を安置することとしました。創建はまさに末法が始まらんとする1052年。翌年には阿弥陀堂の落慶供養が行われました。阿弥陀堂は、現在の鳳凰堂のことです。当時は「阿弥陀堂」「御堂」などと呼ばれており、「鳳凰堂」と呼ばれるようになるのは江戸時代からです。

宇治川|左岸から上流側を撮影

阿弥陀堂は宇治川の西側(左岸)に立地しています。当時、平安京から平等院のある宇治中心地に入るためには、宇治川を東側(右岸)から西側(左岸)に舟で渡る以外になかったそうです。これがあたかも、現世である此岸から、西方極楽浄土である彼岸に向かっているかのようになぞらえられるようなりました。

阿弥陀堂正面■国宝・平安時代

阿弥陀堂は、阿弥陀浄土図(浄土変相図)に見られる宝楼閣形式の建物として建立されました。人々が西を向いて遥拝する設計のため、建物の正面は東向きです。

阿弥陀堂南翼廊■国宝・平安時代
阿弥陀堂北翼廊■国宝・平安時代

中堂を中心として左右に北翼廊と南翼廊が伸びています。翼廊は1重2階建てで、L字型に曲がった部分は隅楼が付設され3階となっています。

阿弥陀堂南翼廊■国宝・平安時代

中堂の裏(西側)には尾廊が付いています。尾廊は1階建てです。現在の中堂・翼廊・尾廊の屋根はすべて瓦葺ですが、当時は木瓦が用いられていたそうです。現存している木瓦の事例は中尊寺の金色堂のみですが、当時阿弥陀堂では一般的に利用されていたと想定されています。

阿弥陀堂尾廊■国宝・平安時代

中堂の中心には阿弥陀仏が安置されています。この阿弥陀仏は、定朝(じょうちょう)が造立したことが確実に分かっている唯一の作品です。定朝は「寄木造(よせぎづくり)」の製作技法を完成させた仏師として有名です。従来主流だった「一木造(いちぼくづくり)」は、仏像の胴体を1本の木材で構成したため、巨像を造るには大木が必要でした。「寄木造」では複数の木材を組み合わせて胴体を構成したため、材の調達が容易になります。さらに、材の内側を刳り貫くことも簡便になったことで、一木の重厚感を排し、より柔和な表現が可能となりました。寄木造によって造られた優しげな表情の等身大阿弥陀仏は、ときの貴族たちの浄土へのあこがれをより一層掻き立てることになったのでした。

阿弥陀堂中堂・阿弥陀仏■国宝・平安時代

中堂内では、壁や扉の内側に九品来迎図(複製)が描かれ、長押(なげし=柱と柱を水平につなぐ材)の上の小壁には雲中供養菩薩52躯(内26躯は複製)が架けられており、浄土美術の粋を集めた空間になっています。中堂の内部を見学するには別途拝観料が必要で、時期によっては長い時間待つこともありますが、絶対に拝観しておくべき場所です。

鳳凰(複製)
国宝の現物はミュージアム鳳翔館にて展示。

阿弥陀堂は、阿字池という池に浮かぶ中島に建っています。この池は、極楽浄土にあるとされる宝地(ほうち)を模したもので、浄土思想にもとづき阿弥陀堂と合わせて作られる園池を「浄土庭園」と呼びます。玉石を敷き詰めて形成された緩やかな汀は、平安時代の庭園様式です。当時から「水石幽奇にして、風流勝絶なり。あたかも群類を彼岸に導くがごとし」と言われ、その美しさは「神妙の極み」と讃えられた最高傑作でした。

平等院庭園
阿字池に中島が浮かぶ庭園。中島の汀は宇治川で採取された玉石によって近年に復元された。

阿弥陀堂のデザイン、中堂内部の工芸・美術群、浄土庭園などが融合した結果、平等院には極楽浄土そのものの景観が生まれました。「極楽浄土がどのようなものか分からなくなったら、宇治の阿弥陀堂を拝めばいい」という童歌も流行ったほどです。阿弥陀堂の建立以降、平等院では法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などが次々と竣工され、宇治における一大仏教拠点になりました。

藤原頼通にとっての現世と没後

極楽浄土への往生を願って平等院の阿弥陀堂を創建した藤原頼通。彼の現世と没後はどのような時代だったのでしょうか。

頼通は、父道長となにかにつけて対照的な人物でした。道長が強引な政治手腕で事を思い通りに進め、肝の据わった大胆な人物だったのに対して、頼通は年長の貴族に相談しながら堅実な政治を行い、独断にならないよう天皇の意向も伺う誠実で温和な人物だったとされています。官職については、道長が後一条天皇の摂政を1年務めただけで公卿の頂点に君臨し続けたのに対して、頼通は1017年から摂政を2年間、1019年から関白を48年間も務めることでなんとか権勢を維持しました。

また、道長は娘に恵まれ、孫のうち3人が天皇(後一条、後朱雀、後冷泉)に即位したのに対して、頼通は娘に恵まれず、とうとう天皇の外祖父になれませんでした。道長の兄弟は疫病で相次いで没したため、道長は比較的楽に出世できたのに対して、頼通には同母弟の教通、異母弟の頼宗や能信など優秀な兄弟との競争を余儀なくされました。道長の立身が姉の詮子のおかげだった一方で、頼通は関白職を子の師実に譲りたい意向を姉の彰子に妨げられ、不本意にも弟の教通に譲ることとなります。

このように道長の人生はなにかと運に恵まれたのに対して、藤原頼通は運に恵まれない苦しい人生でした。現世を苦悶した頼通は極楽浄土への往生を強く望むようになり、平等院の阿弥陀堂を建立するに至ったのかもしれません。1074年、頼通は阿弥陀堂でその最期を迎えました。享年83歳。

しかし、頼通の没後、子の師実は白河天皇のもとで教通から関白職を奪取し、以降、摂関職は頼通の子孫が継承していくようになります。さらに、師実の養女である賢子は白河天皇のもとに入内して堀河天皇を産み、師実は外祖父の地位も得ることができました。

師実の子である師通も、堀河天皇のもとで関白となります。しかし、退位した白河上皇は院政を行おうと画策しており、摂政関白の権力は道長・頼通の時代に比べて弱まりつつありました。師通の子である忠実の時代には、摂政関白の職は天皇の外戚とは関係なく継承されていく家業となっていき、摂関家という家格が生まれるに至ります。

忠実は、摂関家の威勢を挽回するため、藤原氏にとって政治的・文化的なシンボルである平等院を再興しようとします。1101年、阿弥陀堂の改修が行われ、屋根も木瓦からいまのような総瓦葺に生まれ変わりました。鳥羽上皇の鳥羽殿に対抗して宇治の開発も進め、1106年には平等院の経蔵を開いて文献を検知する「宇治入り」という摂関家の行事も開始します。平安時代は摂関政治の時代から院政の時代へと遷ろうとしていました。

基本情報

  • 指定:国史跡「平等院庭園」・世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府宇治市宇治蓮華
  • 施設:平等院(外部サイト)