斎宮跡|古代における伊勢斎王の祭祀空間。権勢を高めたい桓武天皇の思惑

桓武天皇の造都、征夷、そして伊勢崇拝
奈良時代末。称徳天皇が没し、4世代に渡った天武系の皇統は途絶え、天智系の白壁王が即位(光仁天皇)しました。光仁天皇は天武系の皇女・井上内親王を妻としており、2人の間にはすでに他戸親王がいました。ゆくゆくは他戸親王を即位させて天武系に戻すため、光仁天皇には「中継ぎ」の役割が求められていたのです。
しかし、それを潔しとしないのが古今東西の君主の慣いです。即位後わずか2年で井上皇后と他戸親王は廃され、代わって皇太子になったのが山部親王です。山部親王は父の没後781年に即位します(桓武天皇)。
母が渡来系の氏族出身だったため、とても低い血統とされていた桓武天皇。本人もコンプレックスに思っていたようで、その反発からか、即位後すぐに大事業を矢継ぎ早に行なっていきます。最も大きなものは「都造り」です。平城京から長岡京へ、そして平安京へとわずか10年の間に2回も遷都しました。もう1つの事業が「征夷」です。東北での蝦夷征討を推し進め、多賀城→胆沢城→志波城へと軍事拠点を北上させて統治領域を拡大させていきました。
「都造り」と「征夷」の2大事業を進めるうえで、桓武天皇は伊勢神宮への奉幣を何度も行いました。皇太子時代には伊勢神宮に自ら参詣していたことからも分かるとおり、桓武天皇は伊勢神宮に特別な想い入れがあったようです。伊勢神宮が皇祖神を祀る神社として別格の扱いを受けるようになるのは天武天皇の頃から。自らを天智系の皇統に位置付ける桓武天皇としても、天武系の権威にあやかる狙いがあったのでしょうか。伊勢神宮の祭祀を掌る「斎宮寮(さいくうりょう)」を今日に見られる遺構の規模へ拡大したのも桓武天皇です。これら「都造り」「征夷」「伊勢崇拝」は、低い血統の負い目から自らの権威を高めるために行なった一連の施策だと考えられています。
桓武天皇によって大拡張された斎宮
伊勢神宮の祭祀は、天武天皇の時代から皇室の未婚の皇女が行うものとされ、これに抜擢された皇女を「斎王(さいおう)」と呼びます。斎王は伊勢神宮に奉仕するため伊勢国へ赴き、「斎宮(さいくう斎王の御所)」を居所としました。この「斎宮」での斎王の祭祀・生活を維持するための役所が「斎宮寮」です。国史跡「斎宮跡」は、斎宮を中心とした斎宮寮の跡地です。
桓武天皇は斎宮寮を大規模に整備しなおしました。その規模感の目安としてまずは八脚門広場に立ち寄ってみてください。ここが斎宮寮の最も南で西側に位置する門です。柱跡から八脚の門であることが分かったのですが、八脚門は当時格式の高い門とされており、ここが斎宮寮のメインゲートだったと想定されています。

門と塀の柱の一部が表示されている。八脚門の一番東側の柱列は表示されていない。
ここから東に2km、北に0.7kmで囲まれた内側が斎宮寮の敷地です。10分くらい歩いた所にある史跡全体模型が、斎宮寮の南北のちょうど真ん中くらいでしょうか。斎宮寮の規模感を体感できるのではないかと思います。

八脚門の位置が最も南西側。東西7南北4の区画に分かれていた。各区画には斎宮寮に関わる建物が建っていた。
史跡全体模型を見てのとおり、斎宮寮は幅6mの道路で1辺120m四方の区画に分けられています。こうした整然とした区画整備も桓武天皇のときに行われたようです。「さいくう平安の杜」に向かう道は当時の様子に復元された道路です。

道路幅は15mで両側に側溝がある。
「さいくう平安の杜」では発掘成果をもとに当時の建物が復元整備されています。この区画では中央の広場を囲うように大型の建物跡が見つかったため、斎宮寮で斎宮の次に重要な施設「斎宮寮庁」の跡だと想定されています。斎宮寮庁では、斎宮寮長官(斎宮頭=さいくうのかみ)の指揮のもとで寮内の政治的儀式や都からの使節の饗応などが行われたようです。

区画北側に位置するメインの建物は3間×2間の四面庇建物で、最も重要な建物として入母屋造の屋根で復元され、蔀戸がつくわれるなど平安期をイメージした造りです。


西側の建物は区画内で最も大きなもので、切り妻造りの屋根の妻側に庇がついています。東側の建物は最も小さく前面には壁がなかったため、簡素なつくりで復元されています。3棟とも礎石はなく掘立柱建物で、瓦の出土もなかったため屋根は檜皮や板で葺かれた復元です。

この区画から道路を挟んで南側の区画は、斎王の居所である「斎宮(内院)」の跡だと想定されています。この区画は塀に囲まれたとくに重要な敷地でした。光仁天皇や桓武天皇のときに整備された区画だと想定されています。

2002年までの発掘成果をもとにした復元案。その後の調査結果により各区画の配置は別の案が想定されている。
光仁・桓武天皇のときの斎王たち
天皇の娘などから斎王を選ぶことを「卜定(ぼくじょう)」と言います。選ばれた内親王・皇女は、宮内の適地で穢れを祓う生活に入り(この場所を「初斎院」と言います)、さらに嵯峨野の適地に移って潔斎のための生活を送ります(この場所を「野宮」と言う)。その後ようやく伊勢へと出発しました。このときの行列を「群行」と呼びます。

中央の輿に斎王が乗っている。群行は500人以上の規模になったという。
斎宮に入った斎王は年に3度ほど伊勢神宮にお参りし奉仕したほか、普段は伊勢神宮を遥拝しながら日々を送っていました。伊勢神宮の祭祀などと聞くと、あらゆる穢れや汚れを廃し一切の俗物がないような生活をイメージしてしましますが、遺跡の出土物は都とあまり変わらない生活が送られていたことを物語っています。

女性の文字とされるひらがなは9世紀後半以降から。斎王に仕えた女官によるものか。

愛らしい鳥形の硯。全国的にも出土例は稀。
この斎宮で、伊勢神宮の祭祀を行なった斎王とはいったいどんな女性たちだったのでしょうか。まず、前述の光仁天皇の妻・井上内親王は聖武天皇のとき11歳頃に伊勢に赴きました。およそ14年間斎王として過ごし、帰京後に光仁天皇(当時白壁王)と結婚しました。光仁天皇と井上内親王の娘・酒人内親王も、19歳のときに斎王として伊勢に下向します。しかし、母と弟(他戸親王)の急逝により1年で帰京し、その後は異母兄にあたる桓武天皇(当時山部親王)に嫁ぎました。

桓武天皇と酒人内親王の娘・朝原内親王は6歳頃に斎王として伊勢に下向しました。このとき桓武天皇は、平城京から出発する娘を見送るために長岡京から旧都まで行幸したそうです。それだけ愛娘と離れるのが辛かったのか、伊勢神宮の祭祀を重視していたのか、とにかく異例中の異例だったとのこと。朝原内親王は796年に斎王の任を解かれて平安京に帰り、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)と結婚しました。
基本情報
- 指定:国史跡「斎宮跡」
- 住所:三重県多気郡明和町斎宮
- 施設:斎宮歴史博部館(外部サイト)

