飛鳥寺跡|日本最古の寺院跡。幻の一塔三金堂に仏教受容の苦難を思う。

一塔三金堂の伽藍配置をした巨大な寺院・飛鳥寺

飛鳥寺は飛鳥時代に蘇我馬子によって建立されました。日本で最初の本格的な寺院で、「ここから仏法が興る」という意味の「法興寺」とも呼ばれますが、残念ながら飛鳥寺の堂宇はすべて消失していて飛鳥時代の飛鳥寺をうかがい知ることはできません。飛鳥寺跡地には現在「安居院(あんごいん)」と呼ばれる塔頭寺院が建っています。

安居院本堂

そのような中で飛鳥時代の景観に浸れる場所が安居院の西側、飛鳥寺西門にあたる場所です。ここから東側を見ると、安居院本堂の寄棟造の屋根が見えますが、これが飛鳥時代当時の金堂と西門との距離感です。飛鳥寺がいかに巨大な寺院であったか、その一端を垣間見ることができるでしょう。また西側を臨むと田畑が広がり、その先に甘樫丘が見えます。飛鳥時代当時も飛鳥寺の西側は「槻の広場」と呼ばれる、朝廷にとって重要な空間があったほか、甘樫丘の麓には蘇我氏の邸宅もありました。飛鳥寺はそのような場所に接して建立されていたのです。

安居院本堂|飛鳥寺西門跡から東側を撮影
槻の広場跡・甘樫丘|飛鳥寺西門跡から西側を撮影

回廊に囲まれた伽藍中心部では、塔を中心に中金堂・東金堂・西金堂が取り囲むように配置されていました。この一塔三金堂の配置は飛鳥寺だけに見られるもので「飛鳥寺式伽藍配置」と呼ばれ、百済の影響が示唆されています。これらの建物はすべて礎石建物でした。これまでは宮中の建物ですら掘立柱建物でしたが、飛鳥寺で初めて礎石建物が採用されたのです。

飛鳥寺伽藍|飛鳥資料館(復元模型)

この中金堂の跡地に現在の安居院本堂が建っています。本堂の飛鳥大仏は、飛鳥時代に鞍作鳥(くらつくりのとり)が造立した仏像で、現存する日本最古の仏像です。顔の部分はほぼ当時のままとも言われており、建立当初と全く同じ位置で現在も鎮座しています。

飛鳥大仏■重文・飛鳥時代|安居院本堂

中金堂の北側で回廊は閉じられ、さらに北側には講堂がありました。現在の来迎寺のあたりには講堂礎石がまばらに残っており、ここまでが飛鳥寺の主要な範囲です。飛鳥寺がいかに巨大な寺院であったかがこれでも分かると思います。

飛鳥寺講堂礎石|来迎寺南東隅
飛鳥寺講堂礎石|来迎寺東面

仏教公伝から公式受容までの苦難の道のり

仏教が百済から日本に伝わったのは欽明天皇の時代ですが(538年または552年)、仏教公伝後すぐに飛鳥寺が建立されたわけではありません。この巨大寺院が建立されるまでには廃仏という苦難の道のりがあったのです。

欽明天皇のもとには蘇我稲目(そがのいなめ)と物部尾輿(もののべのおこし)という重臣がいましたが、新興豪族の蘇我氏に対して、物部氏は古くから天皇家に仕えてきた伝統的な豪族であり、二人は朝廷内での主導権を巡って敵対する関係だったようです。仏教の受容を巡っても同様で、欽明天皇が仏教について二人に諮問したときにも、受け入れるべきだとする蘇我稲目に対して、物部尾輿は「異国の神(仏)を崇拝することは日本古来の神の怒りを買う」と主張して受容に反対し、真っ向から対立しました。二人の意見をうけ、欽明天皇は百済からもたらされた仏像を蘇我稲目に与え、試みに蘇我氏のみに仏法の崇拝を認めることとしました。しかしその年、疫病が流行し国民の多くが亡くなったため、尾輿は「これは日本古来の神の祟りだ」とし、天皇の許可を得て稲目の仏像を廃棄してしまいます。

欽明天皇の子である敏達天皇の時代にも、蘇我氏のみに崇仏が認められ稲目の息子である蘇我馬子は政権内での勢力を拡大する傍らで、地道に仏教の崇拝を続けます。しかし、たびたび物部守屋(尾輿の息子)から妨害を受け、廃仏の憂き目に合いました。

敏達の次に立った用明天皇は欽明天皇と堅塩媛との間に産まれた皇子です。堅塩媛は蘇我馬子の妹にあたるので、馬子は天皇の外戚となって影響力を行使することができるようになりました。用明天皇は即位後まもなく病に伏し、「病気の平癒のために仏教に帰依したいと願うが、皆はどう思うか」と群臣に問います。物部守屋は反対しましたが、蘇我馬子は「天皇が望んでいるのに反対する道理があろうか」と主張し、守屋は不利な立場に追いやられていきます。用明天皇の死後、次期天皇を巡って蘇我氏と物部氏の対立は決定的となり、587年に武力衝突に至りました(丁未の乱)。

この戦闘に際して蘇我馬子は、戦勝のあかつきには寺塔を建立し仏法を広めることを誓いました。泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)や厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)を擁した馬子は激戦の末に物部守屋を滅ぼし、誓願どおり寺院を建築しました。これが飛鳥寺です。用明天皇のあとに皇位についた崇峻天皇は早々に馬子によって除かれてしまいますが、その次の推古天皇によって592年ついに「三法興隆(さんぽうこうりゅう)」の詔が出されました。仏教の公伝から半世紀もの時間が経ってようやく、仏教は国家政策として正式に受容されることになったのです。

飛鳥寺建立の経過

飛鳥寺は「真神の原(まかみのはら)」と呼ばれる飛鳥の中心地に建立されることになりました。日本書紀によると、588年から既存の建物が取り壊され、590年には周辺の山々から木が伐採され用材の搬入が始まったようです。

飛鳥の地|甘樫丘から東側を撮影

590年には塔の心礎が据えられて仏舎利が安置され、心柱が立てられました。このとき、舎利容器とともに玉類や金銅製の装身具、武具や馬具などが埋納されたようで、出土した品々が飛鳥資料館で展示されています。これらの品々は古墳の副葬品と見まがうほどで、古墳から寺院へと祭祀の対象が移り変わるその狭間を見ているような気分になります。

発願からわずか10年後の596年、堂塔が完成しました。その後、推古天皇の発願により605年に仏像の造立が始まり、609年頃には完成したと見られます。この仏像が現在の飛鳥大仏です。

飛鳥寺は礎石建物による日本で最初の仏教寺院で、屋根には瓦が葺かれていました。飛鳥寺の瓦の製作には百済人が関わっていて、百済のものによく似た「素弁蓮華紋」が施されています。この紋様をよく見ると、飛鳥寺には2種類の瓦が使われていることが分かります。1つは花弁の先端に星のような点珠を置くタイプで、もう1つは花弁の先端に切り込みが入るタイプです。これらは飛鳥寺の瓦製作に2つの工人集団が関わっていたことを示し、それぞれの集団を「星組」「花組」と呼んでいます。この2集団はその後も蘇我氏や厩戸皇子にゆかりのある寺院で瓦の製作を担ったことが分かっています。

飛鳥寺は平城遷都にともなって平城京内に元興寺として移転する一方で、飛鳥時代の伽藍は本元興寺としてそのまま存続します。平安時代までは栄えましたが、鎌倉時代に入って堂宇を焼失したのを機に急速に衰えていったようです。江戸時代になって中金堂の位置に仮堂が再建され、安居院として今に至ります。

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