大徳寺塔頭|大仙院と龍源院で見る、室町時代戦国期の枯山水庭園の最高傑作

応仁・文明の乱後に塔頭寺院で発展した枯山水庭園

鎌倉時代に日本に浸透した禅宗では、開山を行った高僧を永く敬う文化があります。開山僧の没後は、境内に墓を建てられ、その墓守を担う僧侶たちが住まう空間が墓塔の周辺に作られました。この空間を塔頭(たっちゅう)と言います。この塔頭は、開山僧だけではなく、その寺院で時々に現れる著名な高僧にも及び、境内の塔頭は増えていきました。

さらには、没後の墓だけでなく高僧が隠居する際の庵も寺内に造られるようになり、それも「塔頭」と呼ばれるようになります。戦国時代には、各地域で台頭した大名たちが時々の高僧と交流を持ち、教えを受けたため、彼ら高僧が塔頭を開く際に経済的な支援を行いました。

こうした結果、塔頭は独自の経済基盤を持ち、方丈(ほうじょう=仏堂兼書斎)や庫裡(くり=台所)も整備するようになって、本寺の境内にありながら本寺とは独立した存在になっていきました。その後、江戸時代になって塔頭は末寺として完全に独立した寺院になります。寺によっては塔頭を20以上も抱える大寺院が現れ、境内にひとつの町を形成していかのような独特な景観を形成しています。

大徳寺境内
通りの両脇には塔頭が建ち並んでいる。

禅宗寺院で塔頭が増加するのと歩みを合わせるように、枯山水庭園が発展しました。「枯山水」という言葉は平安時代からありましたが、当初は池泉庭園において池の外の水のないところで石を組むことを指す用語でした。やがて、自然の山・河・海を石・砂・植栽だけで表現する庭園様式のことを指すようになり、「仮山水」とも記されました。

枯山水の様式を庭園全体に取り入れたのが、禅宗の僧侶たちです。彼ら作庭を得意とする僧侶たちは特に「石立僧」と呼ばれました。応仁・文明の乱後、荒廃した京都では経済的な困窮がひどく、寺院を復興するにも大規模な池泉を作ることができませんでした。そこで、小規模な敷地の中で水のない庭園が造られるようになったのです。折しも、塔頭寺院が建立されるようになっており、その方丈の周辺に生じる小さな敷地では枯山水庭園の作庭が活発に行われるようになりました。

狭い空間に大自然を再現した"大仙院"書院の間庭園

枯山水庭園の傑作として最も名高いのは大徳寺大仙院の書院の間の庭園です。大仙院は、大徳寺の76世住持だった古嶽宗亘(こがくそうこう)が1509年から49年間住んだ自坊です。大徳寺内で最も有力な塔頭寺院で、「北派」の本庵でした。1513年に建立された玄関・方丈が現存し、国宝に指定されています。

大仙院玄関■国宝・戦国時代
奥の檜皮葺の屋根は方丈(国宝)のもので、同じときに建立された。

方丈は手前3部屋・奥3部屋の6部屋からなり、手前右手(南東側)の部屋が「礼の間(らいのま)」、奥右手(北東側)の部屋が「書院の間」です。この「礼の間」の東面と「書院の間」の東面・北面に生じるL字型の敷地に、古嶽宗亘自らが枯山水庭園を作庭しました。これが特別名勝の「大仙院書院庭園」です。

方丈書院の間東面
方丈書院の間北面

この庭園では、石組だけで自然景観が表現されています。L字の角の部分には枯滝組があり、3段の滝から落下する水流を表しています。その左手には「不動石」「観音石」と呼ばれる直立した巨石が配され、山深い幽谷に源を発する様を表現しています。

枯滝組
中央の石組が三段滝を表している。その左手が観音石(背の低い石)と不動石(背の高い石)。手前には石橋が架かる。

石橋の手前で河は二手に分かれます。一方は南側(方丈東面)へ流れ、橋の下を通り、さらに廊橋を潜って大河となります。もう一方は西側(方丈北面)へ流れ、「独醒石」や「仏盤石」に囲まれた境地(何を表現しているのかは不明)へと至ります。これらの様子は白砂の箒目で表されています。

方丈礼の間東面
中央上側の立石は比叡山を表すとされ、「叡山石」と呼ばれる。
方丈書院の間北面
中央の立石は「独醒石」、その左手で窪みを有する石は「仏盤石」と呼ばれる。

この庭園では自然景観だけでなく、神仙思想も表現されています。神仙思想とは、古代中国で生まれた思想で、不老不死の神仙になるため修行や鍛錬をつむ信仰です。この神仙が住むとされる場所が「蓬莱山」で、先ほどの2つの立石は蓬莱山を表す石組とも言われます。

蓬莱山石
「不動石(左)」「観音石(右)」と呼ばれる2つの石で組まれた蓬莱山。

神仙の使いである亀と鶴は、蓬莱山と一緒に作られることが多いモチーフです。この庭園でも亀島と鶴島が複数の石で組まれています。

亀島|方丈書院の間北面
右を向いた亀を表す。
鶴島|方丈書院の間東面
背中を向けた鶴を表す。左右の巨石が翼、中央の伏せ石が尾。

鶴亀の他にも、神仙思想を表現する庭園で用いられるモチーフが、蓬莱山から福や徳を積んできた宝船です。「舟石」と呼ばれる船そっくりな石が配され、大河の表現にも趣を添えています。

舟石

この枯山水庭園は、廊橋から北に向かって鑑賞する「上石之庭」と、礼の間から東に向かって観賞する「下石之庭」に分かれるそうです。廊橋は、昔の絵図を根拠に昭和になって復元されました。

方丈礼の間東面
正面の花頭窓を持つ壁は廊橋のもの。左手の開け放たれた舞良戸(まいらど)の部屋が書院の間。

室町時代から戦国時代にかけて、深山幽谷を描いた水墨画が襖絵に取り入れられ流行していました。「書院の間」の襖をすべて開けると、枯山水庭園が立体的な水墨画のようにも見えるように設計されていたようです。この書院の間では、千利休が豊臣秀吉のために茶を献じたという逸話もあります。

大仙院方丈ではこの北東面の庭園のほか、北面西側の敷地、南面から西面にかけての敷地にもそれぞれ後世になって造られた枯山水庭園があります。

方丈北面西側庭園
方丈南面庭園■国名勝

壮大な仏教宇宙観を表現した"龍源院"方丈北面の庭園

大仙院と双璧を成す塔頭寺院が、大徳寺南派本庵の「龍源院(りょうげんいん)」。大徳寺の72世住持を務めた東渓宗牧(とうけいそうぼく)が1502年に建立した自坊です。

龍源院表門■国重文・戦国時代

畠山、大友、大内など時の戦国大名からの経済的支援もあり、1517年に表門・玄関・方丈が建立され、現存しています。

龍源院方丈玄関■国重文・戦国時代
龍源院方丈■国重文・戦国時代

この方丈の北面に「龍吟庭(りょうぎんてい)」という枯山水庭園が作庭されました。東渓宗牧自身が作庭したとも、足利将軍家の御用絵師だった相阿弥(そうあみ)が作庭したとも言われます。ちなみに、相阿弥は大仙院の襖絵も手掛けました。

龍吟庭

龍吟庭で中心を成すものは庭園中央北側でやや斜めに立てられた立石で、「須弥山(しゅみせん)」を表すとされています。須弥山を表現する石は「須弥山石」と呼ばれます。仏教の宇宙観では、須弥山は仏教世界の中心に位置する山で、仏が住む場所とされています。さらに、須弥山を取り囲むように9つの山と8つの海があり(「九山八海(くせんはっかい)」と呼ぶ)、須弥山石の周辺に敷かれた苔(スギゴケ)はこの大海を表現しています。

龍吟庭須弥山石
須弥山石の手前にある石は、須弥山に辿りつこうとして修業や祈りを捧げる様を表現しており、「遥拝石」と呼ばれる。

よく見ると、立石を真ん中にして左右には小ぶりの石を1つずつ置いています。これは「三尊石(さんぞんせき)」と呼ばれる石組です。仏像や仏画の配置で「阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)」や「釈迦三尊(釈迦・文殊・普賢)」などを聞いたことがあると思いますが、これにあやかる石組で、庭園では定番の技法です。

龍吟庭列石

左手(西側)から須弥山石に向かって点々と配されている石は、何を表現しているのでしょうか。須弥山に向かって仏が歩む依り代を表しているとも、寺名にもある「龍」を表現しているとも言われますが、実のところは不明です。大仙院書院庭園が自然の山河を形象的・写実的に表現しているに対して、龍吟庭はどちらかというと概念的・抽象的です。観賞者が自由に発想する余地が残されているのです。

禅宗寺院で枯山水の作庭が発展した背景には、作庭自体が修行の一環だったからでもあります。経済力に物を言わせて豪華な庭園を作るのではなく、近場の石や砂を自ら運び、個人の造形力をもって作庭することが重要でした。限られた空間の中で山河の大自然や壮大な宇宙観を表現するために、執着を捨て、知恵を絞り、無駄なものを排することが禅の修行になっていたのです。

龍源院では龍吟庭の他にも、拝観入口から方丈へ向かう廊下南面の「滹沱底(こだてい)」、方丈東面の「東滴壺(とうてきこ)」、南面の「一枝坦(いっしだん)」など、近年に作庭された枯山水庭園があります。

滹沱底(こだてい)|廊下南面
東滴壺(とうてきこ)|方丈東面

禅宗寺院の方丈南面は仏教的儀式を執り行う重要な場所だったため、観賞用の庭園を築くことが固く禁じられていました。南面で石や植栽が用いて観賞用の庭園が作庭されるようになったのは、江戸時代以降でした。大仙院でも龍源院でも、戦国時代に作庭された庭園は方丈北面に残り、その他の面の庭園は近年になって築かれたものであるのはそのためです。

一枝坦(いっしだん)|方丈南面

大徳寺の塔頭寺院は多くが非公開ですが、大仙院と龍源院は常時公開されています。応仁・文明の乱後に本格化する戦国乱世にあって、大寺院の片隅で発展し完成した枯山水庭園の傑作をぜひご覧ください。

基本情報

  • 指定:国史跡「大仙院書院庭園」
  • 住所:京都府京都市北区紫野大徳寺町
  • 施設:大仙院(外部サイト)