大宰府政庁跡|九州の一大政治拠点に見る、律令制の発展と衰退

日本が律令国家として歩み始めた時期とほぼ同じくして今の地に誕生した大宰府。都は飛鳥、藤原、平城、平安と転々とする一方で、大宰府政庁だけは場所を変えることなく現在の地にあり続けます。律令制の発展と衰退の中で、大宰府政庁はどのような変遷をとげたのでしょうか。

律令制の成立と大宰府の誕生

大宰府だざいふの起源は、530年代に筑紫つくし(いまの福岡県福岡市)に設置された那津官家なのつのみやけだと考えらています。官家とは屯倉みやけとも言い、ヤマト王権の直轄地で、九州圏内を統治するための政務施設や豪族からの貢納物を保管する倉庫が置かれていました。その後、外交機能や軍事機能などが付与されながら、600年代初めには筑紫大宰つくしのたいさいとも呼ばれる九州の一大政治拠点になっていきます。白村江はくすきのえの敗戦ののち660年代には、唐・新羅の侵略に備えて内陸部である現在の地に移転し、701年の大宝律令たいほうりつりょうの制定をもって正式に大宰府が成立しました。

大宰府の主な機能は、外交、軍事、西海道の統括です。特に「西海道の統括」では、九州内の9国(筑前・筑後、肥前・肥後、豊前・豊後、日向、薩摩、大隅)と3島(対馬、壱岐、屋久・種子島)を統括する権限を持っていました。

大宰府は、管内にある国衙こくが郡衙ぐんがの官人の任命権や養成機関を持っていたほか、これら国・島からの調庸物はいったん大宰府に留め置かれ、そこから中央に輸送されており、大宰府は中央の都に代わって実質的な徴税権を持っているなど、かなり強い統治権を持っていたようです。

第2期大宰府政庁南門|九州国立博物館(模型)

大宰府の中心となる政庁は、移転当初の660年代には掘立柱建物のでしたが(第1期)、都が奈良・平城京に移ったときに合わせて、平城宮に倣って朝堂院ちょうどういん形式のコの字型の建物配置に建て替えられ、瓦葺の礎石建物に生まれ変わりました(第2期)。このように、大宰府は律令制の確立とともに成立した地方最大の官衙であり、地方における律令制の象徴として強大な権限を有した機関でした。

第2期大宰府政庁鬼瓦■重文・奈良時代|九州国立博物館

藤原純友の乱

平安時代を迎えた大宰府に1つの事件が起こります。939年に起こった天慶(てんぎょう)の乱です。首謀者の名前をとって「藤原純友の乱」とも呼ばれます。瀬戸内を中心に西日本各地にも戦火が広がった大規模な反乱でした。

瀬戸内海で海賊行為を行っていた純友は、伊予や讃岐など瀬戸内海周辺の国府を襲撃し、官物などを略奪。政府軍から逃亡しながらも周防、長門を焼き討ちにし、九州に上陸したのち大宰府へ。このとき、大宰府は保管していた貢納物を略奪されたうえに、政庁に火をかけられ全焼してしまいました。

乱は政府軍によって鎮圧され一件落着しますが、大宰府にとっては2つの意味で重要な事件でした。1つ目は律令時代の栄華を示す政庁そのものが焼失したということ。そして2つ目は、乱の張本人が律令制の下で働く役人だったということです。特に2点目については、地方社会の変質を示す重要な意味を持っていました。

中央から派遣された国司は任期を全うしたのち通常は中央に帰任します。しかし、任国で勢力を蓄えることができた者は、任期が終わってもそのまま居座り、土着する傾向が見られはじめていました。乱を起こした藤原純友はもともとは伊予国の国司であり、官人として海賊を征討する側にいましたが、任期後は伊予に土着し、逆に海賊の頭領となって権益を握っていたのです。

これら国司の土着化は地方に大きな影響を与えました。律令制下の地方社会では、古墳時代以来の豪族層が郡司として地方の隅々を治めていました。しかし、奈良時代の半ばには、開墾により財を蓄えた富裕な農民が郡司である豪族層と肩を並べるようになります。彼らに加えて、土着した元国司も地域支配の勢力として台頭してきたことで、郡司の立場はさらに弱くなり、国司と郡司による律令的地方支配の体制がゆらぎ始めていたのです。

大宰府政庁跡

藤原純友による壊乱を受けて灰燼と化した大宰府ですが、焼き討ち前の建物とほぼ同等の規模でただちに再建がなされます(第3期)。現在の遺構はこのとき再建された建物の跡です。

南門跡
門の左右には築地塀が取り付いていた。
第3期大宰府政庁南門|大宰府展示館(模型1/100)
中門跡
南門と中庭の間にあった門。左右には回廊が取り付いていた。
第3期大宰府政庁中門|大宰府展示館(模型1/100)
脇殿跡
内庭にコの字型に4棟配置されたうちの1棟。
第3期大宰府政庁脇殿|大宰府展示館(模型1/100)
回廊跡|北東側から撮影
中門から伸びる回廊は正殿へとつながっている。右手が正殿。
第3期大宰府政庁回廊|大宰府展示館(模型1/100)
正殿跡
正殿は平安宮の大極殿に相当。公的な儀式のときに利用された。
第3期大宰府政庁正殿|大宰府展示館(模型1/100)
後殿跡|北側から撮影
正殿の北側にはあった建物。
第3期大宰府政庁後殿|大宰府展示館(模型1/100)
楼風建物跡
後殿の脇の建物跡。楼風の建物が推定されているが、役割は不明。
第3期大宰府政庁楼風建物|大宰府展示館(模型1/100)

律令制の崩壊と大宰府の終焉

地方における律令制の象徴・大宰府の再建は成ったものの、律令制そのものは崩壊をはじめます。伝統的な郡司の支配力に頼っていた国司は、郡司の弱体化によって国内の統治が困難になっていました。そのため、国司自身が国内支配のための勢力を獲得する必要がありました。

そこで、中央政府は、国司の中でも最も地位の高い長官(国守)に国務の全権を委ね、権力を集中させます。これ以降、全権を握った国司一人を「受領ずりょう」と呼ぶようになりました。受領は自分の郎党を連れ立って赴任したほか、在地の富裕層を「在庁官人ざいちょうかんじん」として取り込み、赴任地での国内支配を強化していきます。受領たちは国衙こくがではなく自らの館で執務を行なったため、律令制下で誕生した国衙や郡衙ぐんがの建物は廃絶していきました。

こうして管内の国衙が衰退した結果、大宰府の機能も徐々に消滅していきます。考古学調査によると、11世紀中頃には衰退が見え始め、12世紀前半には廃絶したと見られています。古代律令制は崩壊し、時代は中世へと入っていくのです。

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