江戸城外堀|壮大な総構えを体感せよ!三十六見附の枡形門遺構を辿る旅

長大な外堀に整備された厳重な枡形"見附"
最近は皇居ランニングが人気のためか、「皇居は昔、江戸城だった」ということが広く知られるようになってきました。皇居ランのコースは全周約5kmで、速いランナーなら30分足らずで一周できるとのこと。しかし、堀沿いのこのコース、江戸城の堀の中でも内側のもの"内堀"に沿って走っていることをご存知でしょうか。
江戸城は中心部である内郭を内堀が取り囲み、その外側に外郭を構え、これを長大な外堀が囲うという構造になっています。この外堀は、九段下駅あたりから→三越前駅→虎ノ門駅→赤坂見附駅→飯田橋駅→浅草橋駅あたりまで、「の」の字型にぐるりと巡っていました。こういう堀の巡らせ方を「渦巻型」と呼んだりもします。総延長は約14kmで、壮大な堀によって江戸城は守られていました。江戸城の城域は皇居ランのコースよりもっと外側へ広がっているのです。
この長大な外堀は一朝一夕にできたのではなく、徳川家康が江戸に転封され後に初代将軍になって以降、2代目秀忠、3代目家光までおよそ50年をかけて整備されたものです。徳川家とその直臣だけで成せる事業ではなく、全国の大名が動員され各所の工事を担う「天下普請」で成し遂げられました。
外堀上の要所には橋がかけられ、城外から江戸城内(外郭内)へ通行できるようになっていましたが、橋を渡った城内側には門が置かれ、見張番所の武士が通行人を監視していました。こういった厳重に警固された箇所は「見附(みつけ)」と呼ばれます。

主要な見附は軍事施設ではありながら、やがて「三十六見附」と呼ばれて江戸の名所にもなっていきました。ビル群の立ち並ぶ東京都心においても、この見附の遺構が各地に残っています。通勤通学で日常的に利用する通りにポツリと佇んでいるので、江戸城の一部だと気付かずにいる人も多いでしょう。見附の遺構を辿ると、江戸城の外堀を巡っていくことになり、城の全体像や規模感を体感することができます。
江戸城外堀巡りのスタートは東京メトロの九段下駅です。いざ最初の見附を探す前に、九段坂を登って内堀に架けられた田安門(重要文化財)を見ておきましょう。田安門は江戸城内に現存する最も古い門で、見附の構造がほぼ当時のまま残っています。江戸城の見附は規格化されているので、1つしっかり見ておけば、これから辿っていく遺構(主に石垣の残存部分)を見たときに門の全体像がイメージしやすくなります。

枡形の外側である土橋の上から撮影したもの。

枡形の中から撮影。左手の石垣も枡形を構成するもの。
ほとんどの見附では、濠外側から土橋または木橋を渡り、高麗門をくぐって、右か左に直角に折れ、櫓門を通過して城内に入るルートをとります。高麗門と櫓門の間は四角い閉鎖空間になっていて敵の侵入を阻む構造をしています。これを「枡形門」「枡形虎口」または単に「枡形」と言います。この枡形を形成するために、門の袖や土台に石垣が積まれました。これから巡る場所では、木造の建物がなく、石垣の一部だけが佇んでいるので、それが枡形のどの石垣なのか、すぐイメージできるようにしておくといいでしょう。

さて、前置きがとても長くなりました。それでは江戸城の外堀を巡っていきます。
雉子橋門から数寄屋橋門まで|寛永6年(1629年)に造営
田安門から九段坂を降り、俎板橋から首都高の下を日本橋川とともに下っていきます。日本橋川はもと「平川」「旧神田川」とも呼ばれ、徳川家康が江戸に入った初期の頃から外掘として利用されました。その後3代家光のときに改めて整備することとなり、枡形が配置されます。最初に現れる枡形が「雉子橋門」です。越前福井藩(松平忠昌)が門や石垣を築きました。橋と門がやや離れる特異な構造だったらしく、住友商事竹橋ビルの北側脇に櫓台と思われる石垣が残っています(移設されたものか?)。高麗門をくぐって左折する枡形です。名前の由来は、このあたりで雉子を飼っていたからと言います。

枡形を形成する石垣の一部だと想定される。
ここから日本橋川右岸には堀の石垣が続きます。石垣と首都高を合わせた景観は、江戸から東京への移り変わりを物語っているようです。

雉子橋と一ツ橋の間で、首都高の下で見られる石垣。
次は一ツ橋門です。東北の大名(詳細不明)が築いたそうです。高麗門をくぐって右折する枡形で、高麗門に向かって左手の石垣が残っています。家康が江戸に入ってすぐに丸木の一本橋をかけたことが名前の由来とのこと。

右手の橋は現代の一ツ橋。
川岸には石垣が続きますが、続いて現れる神田橋門では遺構を見つけられなかったので、少し歩いて常盤橋門に向かいます。常盤橋門は、東外郭の正面に位置する門なので「大手口」とも称されました。高麗門を潜って右折する枡形で、高麗門両脇の石垣、櫓門右脇の土台、櫓門対面の石垣が残っています。もっとも良好な状態で残存している見附のため、単独で「常盤橋門跡」として史跡指定を受けており、常盤橋公園として整備されています。

現在の常盤橋の上から撮影。正面に高麗門があり、枡形に入って右手に櫓門があった。
常盤橋門からは呉服橋門→鍛冶橋門→数寄屋橋門→山下門→幸橋門と主要な見附が続きますが、遺構が残っていません。東京メトロ三越前駅から銀座線に乗って、一気に虎ノ門駅まで向かいます。
山下門から喰違門まで|寛永13年(1636年)に造営
山下門から西側の見附は、主に寛永13年(1636年)に築かれました。虎ノ門では枡形の遺構はありませんが、ここから南側に延びる外堀の石垣が見つかり、展示されています。虎ノ門駅構内の地下通路には、外堀の石垣を堀底から見上げるように見学できる展示スペースがあります。石垣をよく見ると、石には豊後佐伯藩(毛利高直)を示す矢筈の刻印が押されています。この石垣は毛利家が築いたのです。

虎ノ門から溜池隅櫓の間の石垣。水面の目線から見上げた図。
地上に上がって文部科学省庁舎のラウンジ前にも外堀石垣の一部が展示されています。志摩鳥羽藩(九鬼久隆)が築いた部分です。

虎ノ門から溜池隅櫓の間の石垣。
ここから地上に表示された外堀石垣天面のラインを辿っていくと、再び石垣の一部が現れます。ここに残っている石は江戸時代に積まれたものではないようですが、地下には江戸時代の石垣が埋められているとのこと。備中松山藩(池田長常)が担当した部分です。この短い外堀ラインでも5人大名が普請を分担しました。

見えている石は後世に積まれたもの。地下に江戸時代の石が残り、史跡に指定されている。
さらに南下すると、虎ノ門三井ビル側へ渡る歩道橋のたもとにも石垣が残っています。これは外堀に設けられた隅櫓の櫓台のちょうど算木積みの部分です。江戸城外堀に唯一築かれた隅櫓で、「溜池隅櫓」と呼ばれます。

「溜池」と言えば、近くに溜池山王駅があります。名前のとおり、江戸時代にはここ一帯が溜池で、長大な外堀の一角を担っていました。明治時代に埋め立てられ、いまに至ります。溜池から「外堀通り」を北西に進むと、右手は高台になっていますが、まさにこの高台側が江戸城の外郭です。江戸城の中枢が武蔵野台地東端の麹町台地の上に築かれていることが分かります。
外堀通りが青山通りと交差するところが赤坂門です。「赤坂見附」という地下鉄の駅名から、ここにも「見附」があったことが分かります。筑前福岡藩(黒田忠之)が枡形を造りました。青山通りを遮断するように高麗門が建ち、右折して櫓門を通行する枡形です。高麗門に向かって左手の石垣が残っています。

枡形の左側(北側)には紀伊徳川家の屋敷があり、発掘調査の結果が舗装で表示されています。東京ガーデンテラス紀尾井町の脇からテラスに降りると、弁慶濠から立ち上がる門の石垣を間近に見ることができます。

ここから西側にゆるやかに登る弁慶濠は自然の谷地形を活用した外堀で、江戸時代の姿をとどめていると言います。

写真奥が喰違門側。
登りきったところには食違門(くいちがいもん)があります。ここが江戸城域で標高の最も高い所になります。土橋を渡り、互い違いに配置された土塁は、2代家光のとき慶長17年(1612年)に小幡景憲が原型を縄張したと伝わります。その後、3代家光のときに讃岐丸亀藩(生駒高俊)が改めて見附として整備しますが、石垣のともなう高麗門や櫓門は造られず、木戸門が建てられただけでの簡易的なものだったそうです。外堀で唯一枡形をなさない門でした。このあたりには紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったため、喰違門から城内への通路は紀尾井坂と呼ばれ、紀尾井町という地名に引き継がれました。

城外から撮影。いまでも土塁によるクランクが残る。
真田濠から牛込濠へ|寛永13年(1636年)に造営・掘削
喰違門から北側に広がる上智大学のグラウンドも外堀の跡です。幅約120m、深さ約15mの巨大な堀で、信濃松代藩(真田家)が掘削したため「真田濠」とも呼ばれます。

写真奥が四谷門側。
このときに掘り上げた土は城内側に土塁として積まれました。土塁の上には散策路が整備されていて、外堀に沿って歩くことできます。

写真奥が四谷門側。
土塁の途切れたところにあるのが四谷門で、長門萩藩(毛利秀就)が築きました。土橋で堀を渡り、高麗門から右折する枡形でした。枡形を構成する石垣の一部が残っています。

外堀は引き続き北に向かって伸びており、堀に沿って土塁の上を歩くことができます。延々と広がる巨大な堀は出羽米沢藩(上杉定勝)と出羽久保田藩(佐竹義隆)が開削しました。

写真奥が市ヶ谷門側。左手はJR四ツ谷駅。

写真奥が四谷門側。左手はJR市ヶ谷駅。
再び土塁が途切れたところが市ヶ谷門です。美作津山藩(森長継)が築いたというこの枡形は、他とは異なり高麗門から直角に曲がることなく直進して櫓門を通行するタイプでした。枡形を形成していたとされる残石があります。

枡形の遺構はわずかですが、その代わりに市ヶ谷橋を城外方面に渡ると、土橋の北面橋台の石垣を見学できます。この土橋は両側(市ヶ谷濠と牛込濠)の堀の水位を調整する「水戸違い(みとちがい)」という機能を持っていました。

市ヶ谷門からはいったん東京メトロ市ヶ谷駅に下ります。南北線の改札を入ったところには市ヶ谷門の石垣が移設展示されているほか、発掘調査の結果が解説されています。

ひととおり見学したらそのまま地下鉄に乗って飯田橋駅に向かいます。地上には牛込門がありました。土橋を渡って高麗門を右折し櫓門を通行する枡形で、櫓門を支える石垣の片側部分と枡形を形成する櫓門対面側の石垣の一部が残っています。

枡形を形成する石垣の一部。

渡櫓台の石垣。枡形内から櫓門に向かって右手の土台。
牛込門は阿波徳島藩(蜂須賀忠英)が築いたもので、石垣の脇の交番横に「入阿波守内」と刻まれた巨石が残っています。

神田川|元和8年(1622年)に掘削
ここから北側に向かって外堀沿いを歩いていくと、小石川門に当たります。門の遺構はありませんが、ここは神田川と日本橋川の分岐点です。もともと日本橋川の流路しかありませんでしたが、2代秀忠のときにいまの神田川に流路が付け替えられ、神田川は江戸城北側の外堀とされました。日本橋川を下っていくと、今日の出発点である雉子橋門に辿り着きます。
外堀の北側を構成する神田川は、いったん飯田橋駅まで戻ってJR総武線の車窓から見ていきますが、飯田橋駅ではすぐに電車に乗らず、ホーム中央から牛込門の石垣を見学しておきましょう。この石垣は先ほど地上で見た牛込門の渡櫓台の石垣で、堀底からの立ち上がり部分です。渡櫓が堀側にせり出していたことが見て取れます。

JR飯田橋駅ホームから撮影。
飯田橋駅からJR総武線で浅草橋駅まではほぼ外堀(神田川)に並走します。前述のとおり、この外堀(神田川)は2代秀忠のとき元和8年(1622年)に仙台藩(伊達政宗)によって掘削されました。「仙台濠」とも呼ばれます。

JR御茶ノ水駅のホームから撮影。
この外堀には筋違橋門(すじかいばしもん)→浅草橋門と見附が置かれました。残念ながら、両見附とも遺構はありませんが、外堀の終点である浅草橋駅で下車します。ここで今回の江戸城外堀巡りは終了です。
途中電車に乗る区間があるものの、外堀を回るのに午後一杯はかかってしまうでしょう。それだけ江戸城は外堀が長大で、城全域が巨大だということです。内堀を一周する皇居ランとはまた違う楽しみ方として、ぜひ江戸城外堀巡りをお試しください。
基本情報
- 指定:国史跡「江戸城外堀跡」「常盤橋門跡」
- 住所:東京都中央区日本橋本石町、千代田区霞が関、千代田区富士見など

