藤原宮跡|"律令国家・日本"を示す王宮跡。史上初の都城はこうして完成した!
史上初の都城・藤原京
694年、持統天皇によって飛鳥から藤原京へと遷都が行われました。飛鳥の都から藤原京へは歩いてでも行けるぐらいの距離ですが(1時間程度)、この遷都は律令国家を目指す日本にとって大きな一歩となりました。
藤原京はこれまでの飛鳥の都と異なり、日本で初めて条坊が敷かれ、官人をはじめ人々が集住するよう設計された都城でした。京域は5.2km四方と言われます。その大きさを俯瞰するために、まずは藤原宮跡の西側にある藤原京資料室(橿原市立)に行ってみてください。ここには藤原京の1/1000スケールの復元模型が展示されています。
特筆すべき点は京内の中心に王宮(藤原宮)があることです。これは、藤原京より後の都(平城京、長岡京、平安京)と大きく異なる点でした。平城京以後の都のタイプは王宮が都の北側にあって「北闕(ほっけつ)型」と呼ぶのに対し、藤原京では都の中心に王宮があり「周礼(しゅうらい)型」と呼んだりします。
では実際に藤原宮に向かってみましょう。資料室から歩いて10分程のところに藤原宮西面の南門跡があります。藤原宮は周囲を大垣で囲まれ、各四方に3つずつ合計で12の門がありました。ここに地上展示されているのは西面にある3つの門のうち一番南側にあった門の遺構です。
ここから南側に延びている盛土は大垣の跡を示していますが、藤原宮ならではのものが大垣の外側と内側に掘られた濠です。外濠は幅5mにも及び、藤原宮の独立性を際立たせていました。
大垣跡に沿って東へ向かうと藤原宮の正面南門である朱雀門に当たります。残念ながら朱雀門の地上展示はなされていませんが、朱雀門から南に延びる朱雀大路の遺構が発見され、展示がなされています。ここから北側を眺めるといまは農地が広がるだけですが、かつては立派な朱雀門がそびえたっていたことでしょう。
藤原宮の中に入ると朝堂院南門跡が展示されています。ここから宮の中枢に入るわけですが、南から朝堂院、大極殿院、内裏と主要な空間が並んでいました。
朝堂院には朝堂と呼ばれる建物が東西に6棟ずつ建ち並び、官人の中でも位の高い者たちが政務を行っていました。朝堂院は回廊で囲まれ東西にはそれぞれ門が開かれていました。門柱の一部が地上展示されています。
朝堂院と大極殿院の間には宮の中で最も格式の高い大極殿南門がありました。門の向こう(北側)には大極殿の基壇の背後に耳成山がわずかに見えます。
ここから周囲を見渡すと、西側に畝傍山、東側に香久山が見え、藤原宮が大和三山に囲まれていることが分かります。ここがまさに藤原宮の中心でした。つまり藤原京の中心でもあったのです。
大極殿院には大極殿があり、いまは基壇の土盛が残っています。天皇が出御して公式な行事が執り行われるなど、藤原宮内で最も重要な場所でした。実は藤原宮の大極殿は平城遷都時に平城宮に移築されました。現在、平城宮跡に建っている大極殿は藤原京時代の建築様式で復元されているため、まさに藤原宮の大極殿なのです。
大極殿や朝堂など藤原宮内の主要な建物は礎石立ち瓦葺きで造られました。これまで瓦葺きの屋根は寺院にしか用いられておらず、王宮の屋根に瓦が葺かれたのは初めてのことでした。一方で、大極殿の北側にあった内裏の建物は瓦葺きではなく、日本古来の掘立柱建物で植物(檜皮などか)で葺かれた屋根だったようです。しかし、内裏跡は醍醐池によってかなり破壊されているらしくほとんど分かっていません。
18年の歳月を経て実現した藤原京遷都
藤原京への遷都が実現したのは持統天皇の時代ですが、新しい都づくりの動きは前代の天武天皇のときから始まっていました。日本書紀には、天武天皇5年(676年)に「新城(にいき)」を作ろうとした記録が残っており、藤原京の建設はこのときから始まっていたとする説が有力です。結局このときは中止になったことが記されているのですが、その6年後の天武天皇11年(682年)に再び都づくりが始まり、新城の地形を視察させています。天武天皇13年(684年)には天皇自ら京内を巡り、王宮の選地を行ったそうです。しかし、天武天皇は686年に没してしまい、造都事業は一時中断することになりました。
これを引き継いだのが皇后で即位した持統天皇です。持統天皇4年(690年)には天皇自ら宮の地を視察、完成の近づいた持統天皇5年には使者を遣わせて地鎮祭を行いました。この頃から新しい都は「新益京(あらましのみやこ)」と呼ばれるようになり、政府の高官たちに宅地の班給も始まります。翌年には宮の地鎮祭を行い、伊勢・大和・住吉・紀伊の大神に奉幣を行って新宮の報告を行いました。そして持統天皇8年(694年)の12月、正式に遷都が行われたのです。
しかしこのときに宮内の建物すべてが完成していたわけではなかったようで、大極殿は698年頃、朝堂は701年頃、朝堂院回廊は703年以降の完成と見られています。遷都時点で完成していたのは天皇が日常的に過ごす内裏だけだったのでしょう。
とはいえ、大極殿の完成以降はここで盛大な元日朝賀が執り行われるようになりました。特に701年の元日朝賀について『続日本紀』では「文武天皇が大極殿に出御し、元日朝賀の儀を執り行った。その儀では、大極殿南門に烏の幡を立て、左側(東側)には日像・青竜・朱雀の幡を、右側(西側)には月像・玄武・白虎の幡を立てた。蕃夷(ばんい=辺境の地)の使者も左右に立ち並んだ。文物の儀がここに備わった。」と記されています。このとき日本は律令国家として確たる一歩を踏み出したのです。
奈良時代への胎動が始まっていた701年
盛大な元日朝賀で律令国家・日本の威容を高らかに宣言した701年は、皮肉なことに藤原京の廃都が始まる年でもありました。この年3月には「大宝」という元号が定められ、新しい律令(大宝律令)が発布されました。日本はこの新しい律令にもとづいて制度や都を再構築する必要がありましたが、既存の藤原京を改造するだけでは限界がありました。また701年に派遣が決まった遣唐使は実に30年ぶりに唐の都(長安城)を目の当たりにし、704年の帰国後、藤原京との格の違いを畏れながらも天皇に報告したことでしょう。
一方で、藤原京の構造的な欠陥も徐々に浮き彫りになっていきます。藤原京は「新益京(あらましのみやこ=新たに増した都)」と呼ばれたように飛鳥の都を拡張する形で整備されたため、勾配の高い南側(飛鳥の都側)から北西側(藤原京側)に向けて緩やかに下る地形をしていて、飛鳥を含む京内の汚水が藤原宮に向けて流れてくるという課題がありました。
また、京内の南側では大きな丘陵によって朱雀大路が遮られ十分な長さを確保できなかったばかりか、羅城門(京南端の門)も建設できなかったと言われます。藤原京はこのような地形上の欠陥を抱え、国家の威容を示すうえで不十分な都だったのです。
こうした事情から、早くも707年に遷都のことについて話し合いがなされたかと思えば、その翌年には平城造都の決定が下されたのです。そして、なんとその3年後の710年には遷都が実現してしまいました。天武天皇のときから18年の歳月をかけて造営された藤原京でしたが、都として存続した期間は持統・文武・元明の3代の天皇のもとわずか16年でした。
701年は奈良時代の主人公となる首皇子(聖武天皇)と、その皇后・光明子が誕生した年でもあります。奈良時代に向けての胎動は藤原京が完成した701年からすでに始まっていたのでした。
基本情報
- 指定:特別史跡「藤原宮跡」・国史跡「藤原京跡 朱雀大路跡」
- 住所:奈良県橿原市醍醐町
- 施設:橿原市藤原京資料室・奈良文化財研究所藤原宮跡資料室(外部サイト)