月山富田城|戦国時代の中国地方争奪戦。大内・尼子・毛利の三つ巴の戦い
数ある史跡城郭の中でも、実戦を経験した城は多くありません。そんな中にあって、出雲国の富田城は、二度も重要な合戦の舞台となった城郭です。中国地方の覇権を巡って、大内・尼子・毛利の三つ巴の戦いを見ていきます。
第一次富田城の戦い(1542年)尼子氏 × 大内氏
今回の舞台である富田城(とだじょう)は尼子氏の居城です。尼子氏はもともと近江国の一族でしたが、守護代として出雲に赴任して以降、この地に勢力基盤を築きました。尼子氏が戦国大名として歩み始めるのは尼子経久のときから。経久は出雲周辺の国に侵攻を開始し、出雲西側で境界を接する大内氏と争うようになっていきます。
大内氏は当時西国一の戦国大名で、周防・長門を中心に、安芸、石見、豊前などの国々を支配下に置いていました。最大版図を獲得したのは大内義興の時代で、七か国の守護職に任命されるほど室町幕府とも親密な関係を築いていました。
大内氏の配下には毛利元就もいました。当時の毛利氏は、大内氏と尼子氏の二大勢力に挟まれた安芸の国人に過ぎず、生き残りをかけて両陣営と際どい駆け引きを続けて、尼子氏から大内氏へ寝返ったばかりでした。ちなみに国人とは小地域の領主のことです。
尼子氏と大内氏が直接対峙したのは、尼子経久の孫・晴久と大内義興の子・義隆の時代です。先に動き始めたのは尼子晴久の方でした。郡山城の毛利元就を討つべく安芸に侵攻したのです。
1540年、尼子晴久は郡山城を包囲しようと3万の軍勢で進軍しましたが、毛利軍の善戦や大内方の援軍にあって大敗してしまいました。この郡山城の戦いを機に、毛利元就の名声は高まり、尼子方に付いていた多くの国人たちが大内方に付いたことで、尼子氏は再び出雲にまで押し戻されることになりました。
大内義隆はこれをチャンスと捉えて、尼子氏を滅ぼすために富田城を攻撃します。しかし、月山の険峻を活かして築かれた富田城は簡単には落ちず、対陣は長引きました。その間に大内方から尼子方へ寝返る国人が相次ぎ、大内義隆は撤退を余儀なくされます。この撤退戦での大内方の損害は大きく、大内義隆はなんとか周防に逃れることができましたが、可愛がっていた養子が戦死してしまい、義隆はひどく落胆したと言われています。
月山富田城
大内義隆の大軍を退けた富田城とはどのような城なのでしょうか。富田城は、月山(がっさん)と呼ばれる丘陵(標高190m)に築かれた山城です。眼下を流れる飯梨川が濠の役割も担った、天然の要害でした。
丘陵の北麓から山頂にかけ、尾根を活かして多くの曲輪(郭)が築かれています。
中腹に位置する広大な曲輪は山中御殿平(さんちゅうごてんひら)と呼ばれます。山麓の御殿に対してその名称がついたと考えられています。山中御殿は尼子氏当主の日常的な居所として、山麓の御殿は来客時などの儀礼の場として、それぞれ使い分けられるのが戦国時代の山城の特徴でした。
山中御殿平からは七曲りと呼ばれる急峻な登り坂が山頂まで伸びています。坂の途中にも兵を収容できる曲輪があり、防御を固めています。
山頂まで登ると、最後の砦となる曲輪があります。副郭(三の丸と二の丸)と主郭(本丸)は堀切によって分離されていて、最後まで敵を寄せ付けない仕組みが施されています。
山頂を中心に随所に石垣が残っていますが、これは近世になってから積まれたものです。戦国時代の富田城は切岸や土塁などを巧みにつかった土を主体とする城郭でした。
このように山城の中に館を設け、そこで日常の政務や居住を行う拠点スタイルは戦国時代の特徴です。当時、尼子氏と対立して大内氏は平地に館を設けて拠点としていました。大内氏は室町時代当初からの守護大名だったため、室町時代から伝統的に伝わる守護館を好んだのかもしれません。
参考記事
第二次富田城の戦い(1565年)毛利氏 × 尼子氏
尼子晴久に敗れたことで領土拡大の野心を失った大内義隆は、武闘派の重臣から不満を買うことになりました。彼らの謀反によって義隆は自刃に追い込まれ、大内氏は事実上滅亡してしまいます。
大内氏の滅亡によって、中国地方の覇権は尼子氏へと移ります。尼子晴久は室町幕府から8か国の守護職に任命され、一躍大大名にのし上がりました。
しかし、毛利方も黙っておらず、まずは安芸を統一したのち、大内氏不在のまま混乱していた周防・長門に進行し平定することに成功。一介の国人から戦国大名へと躍り出ます。こうして尼子氏と毛利氏は中国地方の覇権を巡って相争う二大勢力になったのです。
1561年、尼子氏の最盛期をつくった晴久が病没し、子の義久が家督を継ぎましたが、まだ若い義久には頼るべき重臣もいませんでした。毛利元就はこの隙をついて出雲征服をもくろみ、尼子義久の籠る富田城に向けて強大な軍勢で出陣したのです。
尼子方の支城を次々と攻略した元就は、富田城を眼下に治める京羅木山(きょうらぎ)に陣を置き、徹底的な包囲網を敷いて尼子方を兵糧攻めにします。やがて城内からの投降者が増大したために、毛利方は容易に城内に侵入できました。このとき、毛利軍は城内の七曲り口まで尼子兵に出くわさなかったとも言われます。
この状況になり尼子義久は降伏を決意、毛利方に引き取られて安芸に幽閉されるにいたります。こうして尼子氏は滅亡し、出雲は毛利氏の領国に組み込まれ、中国地方の覇権は完全に毛利氏が握ったのです。1566年の暮れのことでした。
富田城は毛利氏の家臣によって改修が行われ、現在の形になっていきました。その後、尼子方の残党が富田城を包囲するなど、毛利氏はその対応に悩まされることになります。一方で、織田軍の羽柴秀吉が播磨から侵攻してきており、天下統一を巡った最後の戦乱が迫ろうとしていました。