箸墓古墳|なぜ「最古の巨大古墳」と呼ばれるのか【卑弥呼の墓説に迫る Part1】
「卑弥呼の墓」とも言われる箸墓古墳。この「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説の前提は、箸墓古墳の築造年代と卑弥呼の死期(247年頃)が同時期であるということです。つまり、箸墓古墳が西暦250年前後に築造されたことが分かれば、「箸墓=卑弥呼の墓」説が真実味を帯びてきます。しかし、現時点では、箸墓古墳の年代については様々な考えがあり、長く議論が続いています。
箸墓古墳の年代は、卑弥呼の墓かいなかに関わるだけでなく「古墳時代はいつ始まったのか」「ヤマト王権はどのように成立したのか」「前方後円墳はどのように全国に普及したのか」など古代史の重要なテーマにも深く関わってきます。
そこで、今回の跡ナビでは、箸墓古墳の築造年代にまつわる様々な情報を整理していきます。まず、箸墓古墳の周辺に位置する前方後円墳10基をピックアップし、箸墓古墳が「最古の巨大古墳」と呼ばれる理由を紐解いていきます。次に、箸墓古墳の築造年代に関する3つの説を取り上げ、それぞれの説がどういう根拠に基づいているのかを概観していきます。この2つのテーマを通して、箸墓古墳の築造年代に迫っていきます。
それでは、箸墓古墳がなぜ「最古の巨大古墳」と呼ばれるのか、見ていきましょう。
箸墓古墳
まずは箸墓古墳について分かっていることを見ていきましょう。と言っても、箸墓古墳は宮内庁の陵墓指定を受けており、発掘調査がほとんど行われていません。そのため、分かっていることは僅かです。
- 形 状:全長280m(後円部径160m)
- 段 築:後円部5段、前方部3段
- 葺 石:あり
- 土 器:布留式
- 埋葬部:不明
- 副葬品:不明
- 祭 器:特殊器台・二重口縁壺
箸墓古墳周辺の前方後円墳
今回は、箸墓古墳の周辺に分布する10基の前方後円墳をピックアップします。石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、大塚古墳、ホケノ山古墳、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳、茶臼山古墳、メスリ山古墳です。この10基はすべて奈良盆地東部に位置していて、古墳を解説する書籍では必ずと言っていいほど出てくるので、知っている方・見た方も多いでしょう。
これら10基の前方後円墳を5基ずつ2種類に分け、箸墓古墳と比較していきます。
- 纏向型前方後円墳:石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、大塚古墳、ホケノ山古墳
- 定型的前方後円墳:西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳、茶臼山古墳、メスリ山古墳
纏向型前方後円墳
「纏向型」と呼ばれる理由は、これらの古墳が纏向遺跡内にあるためです。ピックアップした5基は全長100m前後の前方後円墳です。これら5基のうち、ホケノ山古墳以外の4基は十分に発掘調査がされておらず断片的な情報しかありません。また、いまでは一部が削平されてしまい全形が分からない古墳も多い状態です。以下に分かっている情報を整理し、箸墓古墳と比較していきます。
形状
「纏向型」は、後円部に対して前方部がとても短いのが特徴です。また、前方部の端部が三味線の撥のように末広がりになっています。箸墓古墳も撥型の古墳と言われますが、その特徴は薄れてきていると言われます。また、どの古墳も全長が100m前後で、箸墓古墳の1/3程度しかありません。
段築・葺石
段築とは、古墳を高く築くために段々に盛土したもの。葺石とは、盛土が崩壊しないように法面に石を貼り付けたものです。段築については石塚とホケノ山で見られ、箸墓古墳でも見られます。一方、葺石については石塚、勝山、矢塚、大塚の4基には見られず、ホケノ山と箸墓で確認されています。
土器
石塚と勝山から出土する土器は庄内式で、矢塚、東田大塚、ホケノ山、箸墓から出土する土器は布留式です。庄内式は弥生時代の土器型式で、布留式は古墳時代前期の土器型式です。
埋葬部
5基の古墳のうち、埋葬部が分かっているのはホケノ山のみで、木槨の周囲に小石を積み上げる積石木槨でした。
副葬品
副葬品についても、分かっているのはホケノ山古墳だけです。銅鏡(画文帯神獣鏡・内向花紋鏡)、素管頭太刀、鉄製品(鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄槍鉋)、銅鏃が出土しています。こちらも、箸墓古墳の副葬品は分かっていません。
祭器
箸墓古墳では二重口縁壺や特殊器台が出土しましたが、「纏向型」では特殊器台は確認されませんでした。しかし、ホケノ山古墳では二重口縁壺が出土し、箸墓古墳との共通性が見られます。
「纏向型」まとめ
まとめると次のようになります。分かっていないことも多く、現段階で断定することは危険でもありますが、「葺石」「土器式」「祭器」の点から、石塚・勝山・矢塚・大塚→ホケノ山古墳→箸墓古墳の順番に築造されたように見えます。
定型的前方後円墳
奈良盆地の東部山麓沿いには、大王墓と言われる全長200m以上の古墳が分布しています。5基のうち西殿塚、行燈山、渋谷向山の3基が陵墓に指定されているため、発掘調査がなされていません。「纏向型」と同様に断片的な情報になりますが、以下に整理して箸墓古墳と比較します。
形状
前方部が撥型に広がる箸墓に対して、茶臼山とメスリ山の前方部は長方形をしていて柄鏡型と言われます。また、行燈山や渋谷向山の前方部は台形で、鍵穴型になっています。西殿塚は箸墓と同じ撥型です。
段築・葺石
箸墓古墳の後円部は5段、西殿塚は4段、他4基は3段です。前方部も、箸墓の3段に対して他の古墳は概ね2段です。葺石は5基すべてに見られました。
土器
土器はすべて布留式になります。布留式土器は古墳時代を通して規格化されていき、汎用品になっていくことが分かっています。箸墓古墳に見られた布留式土器はまだ規格化されていない段階のもので、布留式土器の中でも初期段階のものだと見られています。そのため、箸墓で出土した土器は「布留0式」と呼ばれ、他5基で出土した土器「布留1式」とは区別して考えられています。
埋葬部
陵墓である3基と箸墓古墳については分かっていませんが、茶臼山古墳とメスリ山古墳は竪穴式石室だったことが分かっています。
副葬品
同じく、陵墓である3基と箸墓古墳については分かっていませんが、茶臼山古墳とメスリ山古墳では玉杖などの石製品や三角縁神獣鏡などの銅鏡が出土しました。特に、古墳時代前期に流行する三角縁神獣鏡は「纏向型」であるホケノ山古墳には出土していません。
祭器
箸墓古墳を含めすべての古墳で祭器が出土しています。特に、西殿塚では墳頂部で円筒埴輪が出土しました。この円筒埴輪は、箸墓古墳の墳頂部で出土した特殊器台とよく似ているとのこと。墳丘部(墳頂部に対して傾斜部分のこと)では、箸墓古墳、茶臼山古墳以外の4基で円筒埴輪が確認されました。
「定型的」まとめ
まとめると次のようになります。箸墓古墳の特徴は、「土器式」の布留0式と「祭器」の特殊器台です。特に、特殊器台は弥生時代後期の土器の一種で、円筒埴輪より古いものだと考えられています。これらの特徴から、箸墓古墳は「定型的」5基よりも古い年代に築造されたと考えられます。しかし、特殊器台によく似た円筒埴輪が西殿塚古墳で確認され、さらに、箸墓古墳と同類の二重口縁壺が茶臼山古墳で発見されたことから、箸墓古墳の築造からさほど期間を置かずに西殿塚や茶臼山が築造されたのではないかと考えられます。こちらも断片的な情報のみで断定はできませんが、箸墓古墳→西殿塚古墳・茶臼山古墳→メスリ山・行燈山・渋谷向山古墳の順番に築造されたように見えます。
「最古の巨大古墳」と呼ばれる理由
箸墓古墳周辺の10基の古墳を見てきました。少ない情報ですが、纏向型前方後円→箸墓古墳→定型的前方後円墳の順番で築造されたことが想定されます。纏向遺跡で纏向型前方後円墳が築造されたあと、突如として巨大な箸墓古墳が築造され、その後、奈良盆地東部に巨大古墳が立て続けに築造された、という流れです。最初に巨大化した前方後円墳が箸墓古墳だったため、「最古の巨大古墳」と呼ばれるようになったわけです。
「纏向型」から箸墓古墳を経て「定型的」へと築造された相対的な流れは見えてきました。では、その箸墓古墳が築造された実年代はいつなのでしょうか。次回は、「纏向型」から「定型的」への変化を踏まえて箸墓古墳が築造された実年代に関する3つの説を見ていきます。
参考文献
- 『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』2008年初版
著者:石野博信(橿原考古学研究所副所長を経て、桜井市纏向学研究センター顧問) - 『最初の巨大古墳 箸墓古墳』2007年初版
著者:清水眞一(橿原考古学研究所嘱託を経て、同研究所共同研究員) - 『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』2008年初版
著者:千賀久(橿原考古学研究所主幹を経て、葛城市歴史博物館館長)