名護屋城|豊臣秀吉の野望と文禄・慶長の役

天下統一を果たした豊臣秀吉は、日本国を平定するだけでは満足せず、次の標的を朝鮮国と明国に定めます。天竺までをも視野に入れた壮大な軍事計画の前線基地とし、朝鮮半島に最も近い立地である肥前国松浦郡に巨大城郭を築きました。名護屋城なごやじょうです。秀吉の壮大な野望とそれを実現するための名護屋城とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

秀吉の壮大な野望・文禄の役

秀吉が織田信長の家臣であったときから秀吉の野望を示す逸話が残っています。信長から毛利攻めを命じられたとき「秀吉は、毛利を滅ばした後は九州を攻め取り、さらに海を渡って朝鮮を切り従えて、明国を征伐する許可を請う」て信長を喜ばせたとする話がそれです。

「本能寺の変」で信長が倒れた後、後継者となった秀吉は、1585年に四国を平定したときに、家臣への書状の中で明国征討について匂わせます。1587年に九州を平定した直後には、自らの野望を現実にすべく、朝鮮国王を日本へ服属させるよう、対馬の宗義智そうよしとしに命じました。1590年の小田原攻めの最中には、すでに名護屋城の普請ふしんが開始されていた形跡すらあります。

北条氏を滅ぼし、奥州仕置しおきを行って天下統一を成し遂げた秀吉は、宗義智が連れてきた朝鮮国使節に「明国に進軍するときには、朝鮮国も我が軍に馳せ参ずるように。我が望みは、本朝・唐土・天竺に佳名をとどろかすことである」という返書を与えたとされています。ここにはっきりと明国征討「唐入り」の野望を打ち出したのです。1591年には九州の諸大名に本格的な城普請の命を出し、翌年4月には秀吉自身が名護屋城なごやじょうに入城しました。

同月、釜山ぷさんに上陸した16万人の大軍は、翌5月には朝鮮国の王都漢城かんじょう(ソウル)を占領。これを受けて秀吉はさらに壮大な構想を打ち出します。

  • 現天皇を北京に移し皇帝とする
  • 日本の皇位には、皇太子か皇太弟をつける
  • 朝鮮には自分の家臣を置く

さらに、秀吉自身は、寧波にんぽーに居を移して、東南アジアからインドにかけてを切り従える旨を書状で述べています。秀吉の野望のスケールはポルトガルやスペインの海外進出に匹敵するものでした。

漢城(ソウル)を占領した日本軍はその後、明に通じる平安道へいあんどうを小西行長が、女真族じょしんぞくが住むオランカイへ通じる咸鏡道かんきょうどうを加藤清正が担当し、それぞれ平壌ぴょんやん会寧ふぇりょんまで侵攻していきます。

しかし、各地で発起した義兵の抵抗、李舜臣りしゅんしん率いる水軍に大敗、明による援軍との敗戦などを原因に戦線は膠着。1593年はじめに、秀吉の関知しないまま日明和議の動きが本格化し、同年4月、日本軍は漢城(ソウル)を明け渡して釜山まで撤退することになりました。

こうして文禄ぶんろくの役は終了し、明国の講和使節が名護屋に上陸したのでした。

秀吉の巨大な城郭・名護屋城

明国使節が名護屋に上陸した1593年頃の城下の様子を描いたとされるのが「肥前名護屋城図」です。ちょうど船着き場から名護屋城を目指して歩く明国使節団の一行が見られます。

肥前名護屋城図|名護屋城博物館(複製)

築城から1年ほどしかたっていないにも関わらず、すでに城下町が形成され、大変な賑わいを見せています。絵師は、海に面する北側から描いたようです。

大手道

明使節がどういった経路で城内に入ったかは定かではありません。おそらく大手口からつながる通路を歩いたのでしょうが、名護屋城で「大手道おおてどう」と呼ばれる通路は城下町側につながっていませんでした。城の背後に当たり、北からは見えないため、絵図には描かれていません。

名護屋城【南東側】|名護屋城博物館(模型)

また、この時期の城郭では通常大手口に虎口や枡形が設置されますが、名護屋城の大手口ではその形跡が発見されていません。左手に三の丸の高石垣、右手に小規模な櫓があるのみでした。敵の侵入をあまり意識していないばかりか、城郭としての威容を示す工夫も見当たらないため、「大手道」とは名ばかりで、おそらく正式な入り口ではなかったのでしょう。

大手口
左手の石垣の上は三の丸。右手には櫓台が残る。
大手道
左手は三の丸石垣、右手は東出丸の櫓台。

東出丸

大手道を真っ直ぐ登り、左右に櫓を構えた門をくぐると右手には東出丸ひがしでまるがあります。多門櫓と築地塀によって囲われた独立した曲輪で、南東の備えとしていたようです。

東出丸
正面に多門櫓跡、東出丸の櫓台。
東出丸櫓台・三の丸入口櫓台|東出丸内から撮影
手前が東出丸櫓台、奥が三の丸入口の櫓台。櫓台の後ろには三の丸入口がある。

三の丸

大手道の門をくぐって左手は虎口の構造をとっており、ぐるりと180度反転して櫓門を通過すると三の丸に入ります。名護屋城では、三の丸から二の丸を経由せず本丸へ登る石段が取り付いており、ここが本丸への大手門となっていました。

三の丸
大手道から入ってすぐ。
三の丸
本丸へ登る石段につながる。

本丸

本丸には本丸御殿と天守台がありました。絵図には5層7階の天守が建っています。ここは、天気がよければ壱岐いきも見えるほど展望の効く場所でした。きっと秀吉も、天守に登り海の向こう側に朝鮮国や明国を見ていたことでしょう。

本丸|天守台から撮影
天守台

水手道

名護屋城【北西側】|名護屋城博物館(模型)

本丸に至るには、大手道から三の丸を通る他にも、城下町から水の手口をくぐり水手道みずのてどうを通るルートがありました。この水手道は、水手曲輪みずのてくるわの石垣から本丸石垣に沿って続く総延長160mほどの通路ですが、その間には3つの門が設置され、複数の屈曲を経由する必要があり、簡単には本丸にたどり着けない構造になっています。

水の手道石垣
左側は山里丸石垣。
水の手道
左手は本丸北面の石垣。奥に水手曲輪東面石垣が見える。

二の丸

城下町側から城内への入口は水手口のほかに船手口ふなてぐちがあり、二の丸へとつながっています。二の丸では、御殿風の建物跡が見られず、代わりに掘立柱建物の跡が発見されました。鉄滓や炭化した木材なども出土しており、なんらかの工房のようなものがあったのではないかと想定されていますが、はっきりしたことは分かっていません。

二の丸|船手口から撮影
二の丸掘立柱建物跡

遊撃丸

二の丸の北側には遊撃丸ゆうげきまるという独立した曲輪があり、明国使節はここに宿泊したと言われています。ここは天守台の真下に位置しており、5層7階の天守を仰ぎ見る形になります。その威圧感たるやすさまじいものだったでしょう。明使節団はこの遊撃丸内でどのような時間を過ごしたのでしょうか。

遊撃丸
奥は天守台。明の使節はここから5層の天守を見上げた。
遊撃丸|本丸から撮影

馬場

名護屋城【西側】|名護屋城博物館(模型)

二の丸からは直接本丸に登ることができず、細長い曲輪を通って三の丸に入り、三の丸から本丸に登る必要があります。この二の丸と三の丸の間の細長い曲輪は馬場跡と言われています。しかし、馬場にしては面積が狭く、かつ隅ではない部分に櫓が建っており、その役割は不明な点が多いとされています。

馬場
左手に本丸石垣、右手に馬場西側櫓台。
馬場西側櫓台|本丸から撮影

弾正丸

二の丸の南側には弾正丸だんじょうまるという曲輪があり、浅野長政(弾正少弼だんじょうのしょうひつ)が居としていたとされます。浅野長政は名護屋城普請の総奉行でした。

弾正丸|本丸から撮影

弾正丸には搦手口からめてぐちがあり、城外へと直接つながっています。礎石などは発見されませんでしたが、その巨大な櫓台からは厳重な搦手が想定されます。

搦手口|弾正丸から撮影

秀吉は、大阪城に継ぐ規模の名護屋城に明使節団を引きいれましたが、すぐには引見しませんでした。朝鮮国内での攻撃指示を出すなど実務的の都合もあったのでしょうが、巨大な城郭内に明国使節を閉じ込め威圧する狙いもあったのではないでしょうか。

秀吉の儚い夢・慶長の役

日明の講和交渉は1593年から始まりますが、秀吉が朝鮮南部の割譲を強く迫ったため、交渉は決裂。1596年9月には正式に打ち切られてしまいます。

翌1597年2月、朝鮮再派兵の命令が出されました。この慶長けいちょうの役には、文禄の役のような「明国征討」という壮大な野望は消え、出兵した大名に分配するために朝鮮南部を獲得するという現実的な課題があるだけでした。しかし、1598年8月、秀吉は死去。秀吉の野望は儚い夢として散り、朝鮮南部の獲得もならず全軍が朝鮮国から撤退することになったのです。こうして、文禄・慶長の役は終わったのでした。

天守台石垣破却跡
馬場石垣破却跡

その後、関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)に勝利した徳川家康は江戸幕府を開き、さらに大阪の陣で豊臣家を滅ぼすにいたります。徳川家による天下のもとで、名護屋城は徹底的に破却され、城内にはそのときの痕跡が痛々しく残っています。転げ落ちた巨石は、あたかも秀吉の夢の残骸のようです。

秀吉の野望は無謀だったのかもしれませんが、非現実的なものではありませんでした。秀吉の死去20年後、明国は、女真族じょしんぞくが建国した後金との戦いに大敗し、女真族(満州民族)による清国の時代に入っていくのでした。

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