法隆寺西院伽藍|実は分かっていない!世界最古の木造建築物はいつ誰が建てた?

飛鳥時代に建立された金堂と五重塔

「世界遺産」「世界最古の木造建築物」と名高い法隆寺。もはや知らない人はいないと言っても言い過ぎではないくらいに有名なお寺ですが、ひとくちに「法隆寺」といってもその境内は少し複雑です。法隆寺は大きく2つの区域に分かれていて、それぞれ建立の年代が異なるのです。1つは境内の西側にある「西院伽藍」で、飛鳥時代に創建されました。もう1つは東側にある「東院伽藍」で、こちらは奈良時代の創建です。

飛鳥時代の「西院伽藍」には世界最古の木造建築物として名高い金堂や五重塔があるわけですが、実はこれらの堂宇は法隆寺創建当初のものではありません。聖徳太子が推古天皇の時代(飛鳥時代前半)に創建したとされる初代法隆寺(ここでは「若草伽藍」と言う)は670年に全焼してしまい、西院伽藍はその後の天武天皇から文武天皇の時代(飛鳥時代後半)にかけて建立された再建法隆寺なのです。

西院伽藍はこの若草伽藍のやや北東側に立地していて伽藍区域も重なっていませんでした。さらに、若草伽藍の堂宇の配置が塔と金堂が南北に並ぶ「四天王寺式」だったのに対して、西院伽藍はこれとは異なる配置で再建されました。「法隆寺式」と呼ばれる西院伽藍の配置を見てみましょう。

中門■国宝・飛鳥時代|南大門から撮影

まず南大門をくぐると中門が見えます。再建時は新しい寺地の確保に苦慮したらしく、丘陵の谷間にある傾斜をわざわざ造成して建立されました。見てのとおり中門の高さは南大門より一段高くなっており、高台に位置していることが分かります。ちなみに、若草伽藍は写真右手の築地塀のさらに右側(東側)にありました。

五重塔■国宝・飛鳥時代|中門から撮影
初層のみ裳階(もこし)が付く。金堂よりやや遅れて完成した。
金堂■国宝・飛鳥時代|中門から撮影
世界最古の木造建築物。5間×4間の二重の仏堂で、初層にはさらに裳階が付く。

中門の内側には西側(左手)に五重塔、東側(右手)に金堂があります。金堂内には「中の間」に釈迦如来像、その右手「東の間」に薬師如来像、左手の「西の間」に阿弥陀如来像が安置されています。この3仏の光背に刻まれた銘文によると、釈迦如来像と薬師如来像は飛鳥時代に、阿弥陀如来像は鎌倉時代に造られました。

金堂南面■国宝・飛鳥時代

これら五重塔と金堂は中門から延びている回廊が取り囲んでいます。現在の回廊は北側の両端が屈曲して大講堂に取り付いていますが、これは奈良時代に入って改変されたもの。建立当初は大講堂には取りつかず、その手前で閉じられていました。この五重塔・金堂の並びと回廊の巡り方が「法隆寺式伽藍配置」の特徴です。

中門内側・回廊■国宝・飛鳥時代|中門から東を向いて撮影
中門の柱は中間部が最も太いエンタシス。
回廊東面■国宝・飛鳥時代|南側から北を向いて撮影
飛鳥時代の回廊は内側にのみ廊下がある「単廊」の構造。

東の間・薬師如来像が語る法隆寺創建のいきさつ

この西院伽藍ですが、実はいつ誰が建てたのか分かっていません。これだけ立派な伽藍なのに、建立の由来について記録が残っていないのです。670年に若草伽藍が焼失したのち、誰が再建を発願したのか。679年頃に西院伽藍の金堂が完成したと見られる記述があるため、建立自体はその間に始まったようですが。

若草伽藍軒瓦|法隆寺iセンター(復元)
飛鳥時代前半に見られる「星組」素弁蓮華文の軒丸瓦。
西院伽藍軒瓦|法隆寺iセンター(復元)
飛鳥時代後半に見られるようになる複弁蓮華文の軒丸瓦。

一方で初代法隆寺である若草伽藍は607年に聖徳太子(厩戸皇子)が創建したものだと広く知られています。なぜそのことが分かっているかと言うと、西院伽藍金堂の「東の間」に安置されている薬師如来像の光背にそのことが記されているからです。この銘文には「厩戸皇子の父・用明天皇が586年に病気になったとき、治癒を願って薬師如来像を造って寺を建てようとしたが、果たさずに没したため、607年に推古天皇と皇子が寺と仏像を造った」と記されています。

しかし、前述のとおり若草伽藍は670年に全焼しており、この薬師如来像がほぼ無傷で焼失を逃れ西院伽藍に移されたとする考えに疑問が持たれるようになりました。さらに「仏像の様式が飛鳥時代後半のもの」「薬師如来像に病気平癒を祈る文化は飛鳥時代後半に誕生」などの理由から、銘文どおりの607年ではなく飛鳥時代後半の西院伽藍に合わせて造像されたものだと考えられるようになります。そのため、法隆寺創建の由来も後になって恣意的に作文されたとする可能性が高まり、607年に厩戸皇子によって創建されたものであるという由来も疑わしいものになってしまったのです。

中の間・釈迦如来像が金堂本尊になったいきさつ

同じく、中の間に安置されている釈迦如来像の由来にも疑問が持たれています。この光背には「621年に穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなった。その翌年に厩戸皇子が病に倒れたため、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ=皇子の后)とその子たちは皇子ために釈迦像を造ることを発願した。しかし膳后も疲労が重なったことで先立って亡くなり、その翌日に厩戸皇子が崩じた。そこで3人のために誓願どおり釈迦像を造って623年に完成した」と記されていて、初代法隆寺から本尊であったような内容です。

しかし、薬師如来像と同様にこの釈迦如来像も無傷で火災を逃れたとは考えられません。とはいえ、造像の様式からは確かに飛鳥時代前半に造られたように思われます。そこで銘文をよく読むと、厩戸皇子には4人の后がいたのにそのうち膳后のことしか触れられていないことから、膳氏(かしわで)の一族が造像し、もともとは膳氏とゆかりのある法輪寺に安置され、若草伽藍焼失後に西院伽藍金堂本尊として移設されたものだといまでは考えられるようになっています。

このように、初代法隆寺の若草伽藍も再建法隆寺の西院伽藍も、誰がいつ何を本尊として建立したのか、確かなことは分かっていないのです。唯一確かなことは、西院伽藍の金堂、五重塔、中門、そして回廊が飛鳥時代後半に建立されたものであり、それが世界最古の木造建築物であるということです。その歴史の重みと創建にまつわる謎の深さが、法隆寺の魅力をより一層高めているのではないでしょうか。

基本情報

  • 指定:国史跡「法隆寺旧境内」、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
  • 住所:奈良県生駒郡斑鳩町
  • 施設:法隆寺(外部サイト)