岩宿遺跡|岩宿博物館で見る、日本列島における旧石器の変遷
旧石器時代の地質年代と地層
考古学に関心のある人は「関東地方の旧石器時代遺跡は関東ローム層の赤土から見つかる」ということを聞いたことがあるのではないでしょうか。この「関東ローム層」とはなにか、今日はその話から始めたいと思いますが、まずは予備知識として「地球の地質年代」と「氷河時代」について簡単に触れておきたいと思います。
地球が誕生して以降46億年間の年代についての考え方は、累代>代>紀>世の4つで構成されていて、これを「地質年代」と言います。たとえば、日本列島が大陸から離れて現在のような弧状の島を形成した約1500万年前は、顕生累代>新生代>新第三紀>中新世に該当します。また、人類が最初に石器を使ったとされる約250万年前は顕生累代>新生代>第四紀>更新世に該当します。
累代 | 代 | 紀 | 世 |
---|---|---|---|
↑ | ↑ | ↑ | 完新世 |
↑ | ↑ | 第四紀 | 更新世 |
↑ | ↑ | ↑ | 鮮新世 |
↑ | ↑ | 新第三紀 | 中新世 |
↑ | ↑ | ↑ | 漸進世 |
↑ | ↑ | ↑ | 始新世 |
↑ | 新生代 | 古第三紀 | 暁新世 |
↑ | 中生代 | (省略) | |
↑ | 古生代 | (省略) | |
顕生累代 | (省略) | ||
(省略) |
「氷河時代」とは、地球上のどこかに氷河が存在する時期の呼び名です。地球の歴史の中でこの氷河時代は全部で4回あったと考えられていて、その4回目の氷河時代は約250万年前(第四紀に該当)から始まったので「第四紀氷河時代」と呼ばれます。この「第四期氷河時代」はいまもまさに進行中です。1つの氷河時代の中では、比較的寒い「氷期」と暖かい「間氷期」が交互に訪れますが、現在は間氷期に当たり、直近の氷期は約15万年前から始まり約1.5万年前に終わりました。地質年代では、この最終氷期が終わって間氷期に入ったタイミングを完新世の開始としています。
さて予備知識はこれくらいにして「関東ローム層」の話に入ります。関東地方に広く厚く堆積している関東ローム層ですが、地表に最も近いところには堆積していません。地表には「黒ボク土」と呼ばれる土が(地域によって異なりますが)だいたい1mくらいの深さで堆積しています。「関東ローム層」はその下に堆積していて、厚さはだいたい4m程度(これも地域差がありますが)と言われます。
黒ボク土も関東ロームもどちらも火山灰由来の土壌ですが、堆積した時の自然環境が異なるため土の色が異なります。黒ボク土は、間氷期になった完新世以降(約1.5万年前から)に堆積したので、温暖な気候のもと繁茂した植物の影響を受けて黒色の土(黒土)になりました。一方、関東ロームは50万年前(更新世に該当)から堆積したものですが、更新世は火山活動が活発だったので、降り積もった火山灰の鉄分が酸化して赤色の土(赤土)になりました。
こういった違いがあるため、黒い土から出てきた遺物は約1.5万年前以降、つまり縄文時代以降の遺物、赤い土から出た遺物は縄文より前、つまり旧石器時代の遺物となるわけです。冒頭の「旧石器時代遺跡は赤い土から出土する」とはこういう理由から言われています。
さらに込み入った話をすると、関東ロームは大雑把に言うと「赤い土」なのですが、細かく見るといくつかの層に分かれています。最もメジャーなものは、上から立川ローム、武蔵野ローム、下末吉ローム、多摩ロームの4層で構成されたもので、どれか一つは聞いたことがあるのではないでしょうか。しかし、この構成は南関東に特有のものです。関東ローム層は関東全域で単一なのではなく、どの火山からのどんな火山灰が堆積しているか、場所によって異なっているのです。
このように場所によって異なる層の相互関係を突き止めるのに使われるのが「鍵層」です。異なる地点に同じ鍵層があれば、その鍵層を起点に前後の時期を特定できるようになります。有名な鍵層には「AT層」があります。約3万年前に鹿児島県の姶良(あいら)で大噴火が起こり、そのときの火山灰(姶良丹沢火山灰)が関東地域にまで飛んできて広く地層を形成しました。この地層はもともと神奈川県の丹沢(たんざわ)で発見されたため丹沢火山灰と命名されていましたが、のちに姶良の大噴火によるものだと判明したため、姶良丹沢火山灰(両地名の頭文字をとって「AT火山灰」)と呼ぶようになります。異なる地点であってもこのAT層が共通してあれば、それを起点に約3万年前前後の時期は特定できるようになるわけです。
さて、日本の旧石器時代の遺物は関東ローム層の中でも立川ローム層(またはそれに相当する層)から出土しました。立川ローム層は約4万年前から堆積した地層なので、日本の旧石器時代も約4万年前から始まって、縄文時代が始まる1.5万年前くらいまでの2.5万年の間つづいたと考えられます。この期間は、ヨーロッパの「後期旧石器時代」に含まれるため、日本でも同様に「後期旧石器時代」と呼んでいます。
この約2.5万年に及ぶ後期旧石器時代は石器の変遷に合わせてさらに2段階に分けられます。約4万年前から約3万年前までの1万年間を「後期旧石器時代前半期」、約3万年前から約1.5万年前までの1.5万年間を「後期旧石器時代後半期」と呼びます。先ほどのAT層を境に旧石器時代は大きく二つに分かれているというわけです。
岩宿遺跡の石器の変遷
岩宿遺跡では、後期旧石器時代の前半期・後半期それぞれの石器が発見されました。後期旧石器時代の石器の変遷を見ていきましょう。
まず、前半期には局部磨製石斧と呼ばれる石器が使用されました。これは、のちの縄文時代以降に見られる石斧のように全体を磨いたものではなく、刃の部分など局所的に磨いたものだったためこの名前が付きました。石斧という名前が付いてはいますが、使用用途についての論争が続いており、「大型獣を解体するための道具」と「木材を伐採するための道具」の2説が対立している状態です。局部磨製石斧は後半期になると急速に減少し、姿を消します。
そのほか前半期には、ナイフ形石器が使用されました。ナイフ形石器は「石刃技法」という石器製作の技法によって作られます。これは「石核」と呼ばれる石の塊を打ち割って「石刃」と呼ばれる剥片を作り、この石刃を加工して石器を作り出す手法です。ナイフ形石器は石核を打ち割ったときに生じる鋭い刃縁を一辺だけ残し、残りをすべて潰したもののことで、形状がナイフのように片刃であるためこの名がつきました。「ナイフ形」とは呼ばれるものの、ナイフの用途だけに使われたわけではなく、槍先につけて動物を捕獲するためにも使用されたと見られます。
後期旧石器時代後半期も引き続きナイフ形石器が使用されました。さらに尖頭器と呼ばれる、両側に刃を残す石器も使われ始め、槍先に用いられました。尖頭器は「石槍」とも呼ばれます。
岩宿遺跡では発見されていませんが、後半期も終わりころになると細石刃技法という新たな技法で作られた細石刃が登場しました。細石刃とは長さ約2cm幅約5mmの小さな石刃のことです。これ1片だけを使うのではなく、骨器や木器の先端につくった複数の窪みにはめ込んで使われました。やがて細石刃と入れ替わるようにナイフ形石器は消滅していきます。
その後、細石刃は縄文時代草創期まで使われていたと見られますが、徐々に消失していき、新たに石匙(実態は匙ではなくナイフ)や石鏃が登場、さらに磨製石斧などの磨製石器が使用されはじめました。
旧石器時代研究のゆくえ
岩宿の関東ロームで最初に石器が発見されたのは1946年のことでした。その後、すぐに本格的な調査が始まり、岩宿は日本で最初の旧石器時代遺跡として認定されるにいたります。それまでは、更新世(縄文時代より前)の日本列島は火山活動が活発で、人類が住める場所ではないと考えられていたため、日本には旧石器時代はないと考えられていたのです。それがいまでは日本全国に1万もの旧石器時代遺跡が確認されており、約4万年前の日本列島に人類がいたことは確かなこととなりました。
では、それ以前はどうだったのでしょう。後期旧石器時代より前、つまり前期旧石器時代は日本にあったのでしょうか。岩宿遺跡でも立川ローム相当の地層よりも下から、石器と見られる石が発見されました。しかし、これは石器ではなく、石同士がぶつかってできる自然礫だと見る研究者が多く、前期旧石器時代の石器とは認められていません。このような石器は偽石器(ぎせっき)と呼ばれます。
日本では旧石器捏造事件という、学問ではあってはいけない大事件が起こったため、石器の確定に慎重になっています。果たして、日本列島には前期旧石器時代はあったのか。近い将来、誰もが石器だと認める遺物が、4万年前の地層より下の層から発見されるを楽しみにしています。
基本情報
- 指定:国史跡「岩宿遺跡」
- 住所:群馬県みどり市笠懸町
- 施設:岩宿博物館(外部サイト)