加茂岩倉遺跡|銅鐸による農耕儀礼と大量埋納【出雲の青銅器 Part1】

青銅器

弥生文化を象徴する金属器、青銅器には鏡、剣・矛・戈・鏃、鑿・鉋など様々な器種があります。弥生時代前期には、中国遼寧地方から朝鮮半島を経由して日本列島に伝わったと想定されています。

完成品の輸入から始まった日本の青銅器文化は、弥生時代中期を迎えてすぐに国内生産に移行します。日本で製造された主な青銅器は、武器型と鐘型の2種類でした。武器型は銅剣・銅矛・銅戈で、鐘型は銅鐸です。日本の青銅器は、遼寧地方や朝鮮半島とは異なる独特な様式に発展していきます。

銅鐸

鐘型の青銅器である銅鐸は、持ち手である鈕(ちゅう)と中空の鐸身(たくしん)の大きく2つの部分で構成されています。鈕の穴にヒモを通してぶら下げ、鐸身の内部に垂らされた棒状の舌(ぜつ)を内壁に当てると音が鳴ります。

鈕部分を側面から見た形によって、菱環鈕式(りゅうかん)、外縁付鈕式(がいえんつき)、扁平鈕式(へんぺい)、突線鈕式(とっせん)に分類されます。この順番で変遷を遂げ、どんどん大型化していきました。

鈕や鐸身には文様や絵画が描かれています。流水文や袈裟襷文などの文様や、シカ・イノシシ・カメなどの絵画です。特にシカは「土地の精霊」と崇められていたと想定されおり、土器にも描かれることの多いモチーフです。

これらの特徴をもつ銅鐸は、農耕儀礼などの祭祀に使用されたと考えられています。豊穣を祈る祝詞が唱えられる中、銅鐸の音が厳かに鳴り響いていたのでしょう。儀式において神を呼ぶための鐘だったとも想定されています。

このような銅鐸が地中に大量に埋められていました。加茂岩倉遺跡の事例です。

加茂岩倉遺跡

島根県加茂町岩倉は、雲南市の平野部から数km離れた山間地域。

加茂岩倉遺跡の入口部分
ここから5分程緩やかな谷坂を登ると出土地点。
出土地点の谷
左手の斜面上で銅鐸が出土した。

この見通しの悪い谷間に農道を通す工事中、突如39個の銅鐸が出土しました。谷道に沿う片側の斜面上、谷道から高さ18mの地点からでした。

出土地点
正面の斜面中程で銅鐸が出土した。
集められた銅鐸の状況(復元)
パワーショベルによって書き出された銅鐸の様子。

出土した地点は工事車両のパワーショベルによって撹乱されていましたが、原位置を留めていた銅鐸が2個ありました。正確には、これら2個の銅鐸の中には小型の銅鐸が1つずつ入っていたため合計4つ。これを入れ子状態と言います。

埋められた銅鐸の状況(複製)
掻き出した土の間から銅鐸が発見された様子。中央の赤みがかった帯状の跡が穴部分。

銅鐸は高さ45cmの大きなタイプ(外縁付鈕式・扁平鈕式)と、30cmの小ぶりなタイプ(外縁付鈕式)の2種類があり、大きいタイプの中に小ぶりなタイプが入れ子状態にして埋められていました。

埋められた状態|古代出雲歴史博物館(復元)
右手が29号銅鐸(中には30号銅鐸)、左手が31号銅鐸(中には39号銅鐸)。

39個のうち、12組が入れ子状態で発見され、残りの銅鐸も同様の状態で埋められたと想定されています。銅鐸の中には土が詰められていて、その土砂分析の結果からは意図的に土を詰めてから埋めた様子が推定されています。

2号(3号)銅鐸|加茂岩倉遺跡ガイダンス(複製)

銅鐸を埋めた穴は深さ50cm程度。一定の法則に従って銅鐸を並べたようです。出土地点のすぐ傍には別の穴(土坑)も発見されましたが、ここからは何も発見されませんでした。

複製土坑(穴)

なぜ埋められたのか

集落から離れた山中で発掘調査が行われることは少ないため、このような銅鐸の出土事例は多くありません。しかし、加茂岩倉遺跡のほかにも桜ヶ丘遺跡(兵庫県神戸市)や小篠原遺跡(滋賀県野洲市)などで銅鐸の大量埋納が発見されています。

埋納状況|古代出雲歴史博物館(模型)

複数の銅鐸が地中に埋められた理由にはいくつかの説があります。無造作に放置されたわけではなく、わざわざ山中に埋められたということは何か意味があったのでしょう。銅鐸を始めとする青銅器を意図的に地中に埋めることを特に「埋納」と呼びます。

  • 保管説:普段から土の中で保管しており、そのまま残された。
  • 隠匿説:有事の際に土中に隠した。
  • 地鎮説:地の神への捧げ物として埋めた。
  • 境界説:邪気や悪霊をはらうために、土地の境界に埋めた。
  • 廃棄説:時代の変化によって不用になったため、廃棄された。

弥生時代後期になると、山中ばかりでなく集落内や墓周辺なども埋納場所として選ばれるようになりました。この頃の銅鐸は突線鈕式という最終段階に移行し、巨大になっていきます。最も新しい型の銅鐸は高さ134cm・重さ45kg。装飾も増える傾向にあるため「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化したと考えられています。

近畿地方を中心に銅鐸の巨大化が進む一方、出雲を含む山陰地方や山陽地方では銅鐸のみならず武器型青銅器の出土例もなくなります。これらの地域では首長級の墓(王墓)が巨大化することから、銅鐸による農耕儀礼から墳墓での祖霊崇拝へと、新しい祭祀に移行していったと想定されています。

35号銅鐸■国宝・弥生時代|古代出雲歴史博物館
銅鐸の鈕部分に刻まれた✕印。

加茂岩倉遺跡で出土した銅鐸には、鈕部分に鋭い刃物で✕印が刻まれたものが多数ありました。新しい祭祀に移行したことで不用となった銅鐸を廃棄する際、霊が再び地上に現れないよう✕印を刻んで地中に埋めた、とする説もあります。大量埋納や✕印にはいったいどのような意味があるのでしょうか。

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