北野天満宮|秀吉の京都政策と大茶会

織田信長の後を継いだ羽柴秀吉は、四国を平定したのち、1585年に関白の座に着きます。これを機に、秀吉は姓を豊臣に改め、京都市街地の本格的な改造を始めました。

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秀吉の京都政策

まず、関白の職に相応しい邸宅を京都につくります。造営の地は平安時代の内裏趾。この場所は、内裏なきあと荒野になり果て、内野と呼ばれるようになっていました。この内野に聚楽第を造営することにしたのです。邸宅といっても、堀と外郭で囲まれた城郭に近い構えでした。これに合わせて、聚楽第の周りに武家屋敷を集め、武家町を造っていきます。また、奈良東大寺に匹敵する大仏殿を東山に建立することを発願し、権力を知らしめようとしました。

一方で、1586年には禁中で茶会を催し、ときの正親町天皇に茶を献じました。この、いわゆる禁中茶会では黄金の茶室を小御所に持ち込み、自身の富を朝廷に示したのです。

黄金の茶室復元|佐賀県立名護屋城博物館
大阪城や禁中、名護屋城などで秀吉が使用したとされる黄金の茶室。

この翌年、秀吉は九州に遠征して島津氏を屈服させ、九州を手中におさめます。京都に戻った時には聚楽第も完成しており、秀吉は大阪城から聚楽第に移りました。これを祝して、北野天満宮で大規模な茶会が開催されました。それが北野大茶湯です。

北野大茶会

北野は一条より北側を指す名称で、内裏の北に広がる野として平安時代から遊猟地とされていました。947年には菅原道真を祀るために北野天満宮が創建され、やがて文道の神への信仰は広く民衆に広がり、北野の地は都の者たちで賑わう場所となっていきます。室町時代には足利義満が北山山荘を建てました。北山の南麓にあたるのが北野です。義満らは北野天満宮を熱く庇護するとともに、北野で勧進猿楽を開催するなど、より一層遊楽の地になっていくのです。

平安京復元模型【北野部分】|平安京創生館
平安宮より以北には北野と呼ばれる野が広がっていた。

秀吉が茶会を開催する場所として北野を選んだ理由の一つには、北野が持つこういった背景があったからでしょう。また、聚楽第からも程近く、秀吉自身も北野天満宮に参詣するなど、親しみのある場所だったのかもしれません。

一の鳥居
当時には周辺一帯に松林が広がっていた。
北野大茶湯石碑
天満宮駐車場に佇む石碑。ここも当時は松林だったか。

茶会は10月1日に開催されました。侘や数寄のある者は誰でも茶席を設けて良いという触書もあってか、当日は800もの茶席が北野天満宮境内や周辺の松原を埋め尽くしたといいます。秀吉は、堺の茶人3名(千利休、津田宗及、今井宗久)とともに天満宮の拝殿に茶席を設け、訪れた人々に茶を振舞いました。自身が茶を点てるほか、秀吉がこれまでに渡って蒐集してきた茶器も展示。もちろん、黄金の茶室も拝殿に配置し、富と権力を訪れた人々に誇示したのです。

拝殿■国宝・安土桃山時代
拝殿の正面の間に黄金の茶室を始めとした飾席、左手に秀吉と宗及の茶席、右手に利休と宗久の茶席が配置されたと想定されている。客は草履を脱いで拝殿に上がったという。現在の拝殿はのちに再建されたもので、当時の様式とは異なる。

秀吉は、午前中に茶席で茶を振る舞ったあと、午後からは松原の茶席を隅から隅まで見物したようです。美濃国の一化という者が点てたこがし(米を煎ってお湯に入れたもの)を一服し、「今日一の冥加」と誉めて白扇を与えたり、京衆のへち貫という者が朱塗りの大傘を立てて人目を引いていたことを楽しそうに眺めて諸役を免除しただとか。その後、公家衆の茶席に顔を出した秀吉は上機嫌で帰っていったようです。

京都大改造

この茶会は、京都衆の心を掴むための秀吉流の企画だったとも言われますが、800人程度と伝わる当日の参加者数は秀吉の目にどう映ったのでしょうか。堺の茶人に対抗する京都の茶人も、多くは茶席を設けず参加しなかったのではないかと論じられています。

京都衆の反応を秀吉はどう受け取ったのか定かではありませんが、当初10日間で予定されていた茶会を1日で切り上げてしまいました。この理由について当時の人々もいろいろと噂したでしょうが、現在でもはっきりとしたことは分かっていません。

茶会による京都衆の取り込みは失敗だったとしても、秀吉の京都改造は止まりませんでした。聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えたことをはずみに、土御門東院殿(いまの京都御所)の主要な建物を新築し、公家の屋敷を移転させて公家町を建設しました。また、京都の町割りを改編するとともに、寺社の移転を命じて寺町や寺之内を造っていきました。そして最終的には、御土居堀と呼ばれる土塁と堀で市街地を取り囲み、京都を城塞都市としたのです。北野天満宮の傍にも御土居が残っており、国史跡に指定されています。

参考記事

京都改造の最中、秀吉は小田原を包囲して北条氏を滅亡させ、その足で奥州を支配下におき、天下一統を成し遂げました。秀吉なき後を継いだ秀頼は北野天満宮の社殿を桃山時代の建築様式で再建。これらの建造物はいまでも豪華絢爛な輝きを湛えており、北野大茶湯を開催した頃の豊臣秀吉の栄華を彷彿とさせるのです。

基本情報

  • 指定:なし
  • 住所:京都府京都市上京区馬喰町
  • 施設:北野天満宮(外部サイト)