キウス周堤墓|北海道で生まれた縄文時代最大の共同墓地

縄文時代、日本列島の人々は気候の温暖化に適応して食資源や住居形態などの生活様態を変化させていきました。これに合わせて集落の規模や形態も変わり、墓制も変化していきます。しかし、縄文時代の終わり頃、気候は再び寒冷化。これに適応するために人々は再び生活様態を変えていきます。その適応の中で、周堤墓という巨大な墓地が誕生しました。

縄文時代はどのように移ろっていったのか?

紀元前13000年頃、地球全体の気温が上昇し始めます。日本列島に住んでいた人々はこの温暖化に適応しながら新しい生活様態を育んでいきました。この新しい生活様態の時代を縄文時代と呼びます。

まず温暖化によって食資源が変化します。海の氷が溶けて海面が上昇したことで内陸部への海進(縄文海進)が起こり、複雑化した入り江や内湾には豊富な魚介類が生息し始めました。人々はこれら海産物を採集するようになります。また、落葉樹林や照葉樹林の分布が拡大し、高地の人々や北方の人々が木の実を採集するようになり、この木の実を煮炊きするために土器を作り使用しはじめました。

こうした食資源の変換によって安定的に食料を確保できるようになった人々は、1つの地域で定住できるようになります。住居形態は、移動しやすいテント式のものから定住に向いた竪穴式へと変化します。定住化が進むと集落は大規模化していき、生活で生じた不要な物を廃棄するために貝塚が形成されました。

一方で、これら食資源は季節のサイクルに強く依存することになりました。また、定住化や大規模化は集落内で住まう人々の調和が求められることになります。人々は、安定的に食資源を確保できるよう翌年の豊穣を願って土偶をつくったり、集落内の調和を保つために祖先崇拝などの祭祀や儀礼を行うようになっていきます。

気候が安定していた紀元前2000年頃までの間、日本列島の人々はこうした生活様態を確立していくのです。しかし、紀元前2000年以降は気候が寒冷化をはじめ、縄文人は新たな適応を求められます。縄文時代後期へと入っていくのです。

北海道の縄文時代後期の特色は?

寒冷化が進んだ北海道では海面が後退し、釧路湿原などの大規模な湿原地帯が形成されはじめます。植物相も変化し、落葉樹林であるミズナラ林が減少し、代わってトドマツ林が拡大しました。木の実を供給するミズナラはそれ自体が貴重な食料源であっただけでなく、シカの生息地でもあったため、シカというタンパク源も失うことになりました。食資源の減少によって大規模な集落を維持することができず、集落は小規模化・分散化していきます。

北海道の人々は新たな食資源としてサケに目をつけ、秋にサケが遡上する川の周辺に小規模な集落を形成するようになりました。こうした寒冷化への適応の中で、縄文時代最大とも言われる墓地が産まれました。それが周堤墓です。

周堤墓とはなにか?

周堤墓とは、直径数十m規模の竪穴を掘り、その残土でドーナッツ状の土堤を巡らした墓地のことです。竪穴内に墓壙(墓穴)を掘って遺体を埋めました。縄文時代後期後葉、紀元前1200年頃に石狩低地帯で誕生します。

石狩低地帯は、太平洋側の苫小牧市から千歳市、恵庭市、札幌市にまたがり、日本海側の石狩市へと、南北に伸びる広大な低地で、サケの一大遡上地でした。縄文時代後期の人々は豊かなサケ資源を求めて石狩低地帯に集落を形成していき、やがて周堤墓を造りだしました。

周堤墓は千歳市・恵庭市など石狩低地帯の南部で発見されました。もっとも早いものは、キウス川流域で発見されたキウス4遺跡の事例です。キウス川は千歳市を西方に流れ、千歳川に合流してから日本海へとつながっています。この遺跡では集落跡ととも20基の周堤墓が発見されました。初期のものは内径6~8mと小さく、内部の墓壙は1~5穴程度。ベンガラの散布や副葬品も見られませんでした。キウス4遺跡では竪穴住居の建て替えも見られ、長期に渡って集落が営まれたようです。その間に周堤墓は徐々に拡大していき、内径16m、墓壙数14穴のものが現れ、さらにベンガラが散布されたり副葬品が増えたりしていきました。家族単位の墓地から複数の家族からなる親族単位の墓地へと変わっていったようです。

キウス4遺跡・美々4遺跡・美沢1遺跡・柏木B遺跡の位置図|Google Earth(跡ナビ編纂室編集))

これと同時期の周堤墓が美沢川沿いの美々4遺跡や美沢1遺跡でも発見されました。美沢川は新千歳空港あたりから南方へ向かい美々川に合流したあとウトナイ湖を経由して太平洋へと流れ出ています。美々4遺跡の周堤墓で最大のものは内径が16m、墓壙数15穴。ベンガラが撒かれ、石斧や石棒が副葬された墓壙がありました。また、美々4遺跡の対岸にあった美沢1遺跡では、最も大きな周堤墓で内径13m、墓壙数17穴。やはりベンガラが散布され、副葬品には、石斧や石棒に加えて翡翠製の玉や漆塗りの弓製品も見られるようになります。

茂漁川の柏木B遺跡では、さらに大きくなった周堤墓が発見されています。茂漁川は恵庭市の中央を東に流れ、漁川と合わさったあと千歳川に合流して日本海に流れ出ます。柏木B遺跡で発見された5基の周堤墓のうち最大のものは周堤内に21穴、周堤上に18穴もの墓壙を持っています。石棒や石斧、翡翠製のネックレスや漆塗りの弓や櫛などの副葬品があり、立石や積石をほどこして墓標としたものもありました。もはや親族単位の墓地ではなく、一族とも言えるまとまった集団の墓地に拡大しています。

柏木B遺跡第1周堤|恵庭市郷土資料館(模型)
柏木B遺跡の周堤墓で最大規模。土堤外径21m、土堤内径12m、土堤高さ0.3m。内部には多くの墓壙があった。

そして、キウス4遺跡にほど近い場所でキウス周堤墓群が造られます。寄り添った7基の周堤墓のうち、最も大きな外形である1号周堤墓は外径83m、最も高い周堤をもつ2号周堤墓は高さ4.7m、最も広い竪穴をもつ4号周堤墓は内径43m。これまで発見されていた周堤墓に比べて非常に巨大化しています。最も深い2号周堤墓は、3,000㎥程度の土が掘られたと試算されています。一人が1日に1㎥の土を掘ったとすると、25人で4ヶ月程度もかけて造ったことになります。採集経済である縄文時代に、この規模の余剰労働力が生じていたことには驚きです。

キウス周堤墓現況模型|キウス周堤墓群案内所
キウス4遺跡から300m程度離れた場所にまとまって7基の周堤墓が群を成している。手前北側に3号・1号・4号・11号の4基、南側に2号・12号・5号の3基。

しかし、キウス周堤墓の発掘調査は約60年前に2度行われているだけで、墓壙の数や副葬品など、詳しいことは分かっていません。

2号周堤墓
キウス周堤墓群の中で土堤が最も高い。土堤外径73m、土堤内径30m、土堤高さ4.7m。周堤墓を分断する国道から眺めると土堤の高さを実感できる。
2号周堤墓周堤断面
国道によって分断された土堤の断面。
1号周堤墓
キウス周堤墓群の中で土堤が最も広い。土堤外径83m、土堤内径36m、土堤高さ2.8m。

周堤墓が作られるようになってから

周堤墓とは要は「土堤で囲まれた墓地」ということです。この土堤は、墓地であることを示すシンボルとであり、集落と墓地を隔てる壁でもありました。周堤墓は次第に大きくなり、その内側の墓壙も増加していき、多くの人を埋葬するようになります。家族単位の墓地から親族や一族、場合によっては部族と呼べるような集団を埋葬する墓地になり、共同墓地としての性格を強めていきました。誰がどの墓壙に眠っているのかを示す墓標なども現れます。

巨大な土木構造物の造営には多くの労働力を投入する必要があるため、作業者たちを統率するリーダーのような人物もいたことでしょう。また、土木作業そのものを通して、集落内・集落間の結びつきを強める狙いもあったのかもしれません。それにともない、儀礼で使ったと思われる石棒などの祭祀品や、死者が生前に使用していたであろう石斧・櫛・弓などの日用品が墓に副葬されるようになりました。墓地の巨大化、葬送儀礼の誕生、副葬品の多様化などからは縄文時代後期後葉の人々の複雑な精神性を垣間見ることができるのです。

紀元前1200年の縄文時代後期後葉に誕生した周堤墓は、縄文時代晩期になると終焉を迎えてしまいます。縄文時代後期後葉の北海道の人々はどうして縄文時代最大規模の墓地を造ったのでしょうか。周堤墓についてはまだまだ解明の途上ですが、キウス周堤墓群の発掘が進むことで、縄文時代の人々の文化や精神についてさらに理解が深まるに違いありません。今後の発掘成果が楽しみです。

基本情報

  • 指定:国史跡「キウス周堤墓群」、世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」
  • 住所:北海道千歳市中央
  • 施設:千歳市埋蔵文化財センター(外部サイト)