後期平城宮|聖武天皇のために築かれた平城京の王宮 Part2

710年、元明天皇によって造られた平城京は、元正天皇を経て聖武天皇に引き継がれました。しかし、740年、聖武天皇の突然の出奔により平城京は打ち捨てられます。このあと都は各地を転々と遷っていくのでした。

聖武天皇後半の治世

740年、聖武天皇は突然平城京を抜け出し、伊勢に向かったかと思えば、北上して美濃に入り、琵琶湖に沿って南下。このまま平城京に戻るかに見えましたが、平城京の手前、山背国相良郡の恭仁に立ち寄り、突如としてここを都と宣言します。740年も暮れのことでした。

741年の元日朝賀は造営が始まったばかりの恭仁宮で執り行われます。このとき、平城宮中央区の大極殿がせっせと恭仁宮に運搬されているところでした。しかし、聖武天皇は翌742年に紫香楽(近江国甲賀郡)へ行幸したあげく長期滞在、離宮の造営まで開始します。未だ完成していない恭仁宮は造営作業が滞るようになり、やがて中止されてしまうのでした。

紫香楽の離宮造営に専念すればよかったものを、今度は難波に向かいます。実は、聖武天皇は即位後すぐに難波宮を平城京の副都として再建する事業を行っており、このころの難波は都に足る十分な機能が整備されていました。そのような背景もあり、744年には難波を首都とする勅が出されたのです。

しかし、その後も聖武天皇の放浪は休まることなく、引き続き紫香楽に向かい、745年1月には紫香楽が新京とされました。この相次ぐ遷都に臣下や民衆の不満が爆発したのか、紫香楽では放火と思しき山火事が頻発し、これに追い打ちをかけるように地震が多発。これらの現象は神の怒りの現れだと恐怖した聖武天皇は、とうとう平城京に戻ることになりました。恭仁宮(740年)→難波宮(744年)→紫香楽宮(745年)→平城宮(745年)と、目まぐるしいほどに遷都が続く5年間だったのです。

しかし、聖武天皇による重要施策の多くはこの放浪中に企画されました。741年、徐々に整備が進んでいた諸国の寺院建立を「国分寺」として統合することで、仏教による鎮護国家を具現化します。また743年、紫香楽で大仏の造立を宣言。これは後に平城京へ戻ってから、東大寺大仏として完成を迎えました。743年には墾田永年私財法も制定し、国土開発事業に関する法整備を完了させます。

聖武天皇の退位後(孝謙・淳仁天皇)

聖武天皇と正妻の光明皇后との間には男児がいなかったため、一人娘の阿倍内親王が史上初の女性皇太子として立太子していました。

平城還都後により一層仏教への帰依を深めた聖武天皇はもはや後継者の心配など不要とでも言うように、東大寺建設と大仏造立にのめり込んでいきます。749年にはとうとう自分自身が出家、その後、東大寺大仏の完成や鑑真による戒壇設立など、仏教事業の完成を見届け、756年に崩御しました。

聖武天皇の出家後すぐ、阿倍内親王が孝謙天皇として即位します。聖武天皇の時代とは異なり、孝謙天皇による治世は安定していたようで、758年に平穏無事に淳仁天皇へ譲位しました。しかし、退位後の孝謙太上天皇は淳仁天皇と仲違いしていき、764年には淳仁天皇を廃位に追い込んで称徳天皇として重祚、天皇位に返り咲きました。

後期平城宮

745年に聖武天皇が平城宮へ戻ってきてから、平城宮は大改造が行われます。これ以降の平城宮は「後期平城宮」と呼ばれます。

中央区にあった大極殿は恭仁宮に移築されまま山城国分寺の金堂へと施入されたため、中央区の北側には大きな空き地が生まれていました。この大極殿跡地には、太上天皇の日常空間として掘立柱と檜皮葺・瓦棟の屋根による西宮が建設されます。孝謙天皇は、淳仁天皇に譲位して太上天皇となってから、重祚して天皇位についた後もここに住み続けました。また、聖武天皇もこの宮殿で崩御したと想定されています。

中央区大極殿院の南側にあった朝堂院は恭仁京遷都後も存続し、大きな改造は加わっていません。大極殿がなくなって以降、どういった役割をもつ空間になったのか議論が続いています。孝謙天皇の廃位を画策した橘奈良麻呂は、この朝堂院で仲間を集め決起を誓ったと言います(橘奈良麻呂の乱 757年)。こういった密議の場所として使われたということは、人影のまばらなエリアになっていたのかもしれません。

後期平城宮内|平城宮いざない館(模型)
後期平城宮での内裏と大極殿は、天皇の出御空間として一体的に利用された。

中央区大極殿がなくなってしまったため、代わりの施設として東区の内裏外郭正殿が建て替えられ、大極殿として生まれ変わりました。これまでは掘立柱建物でしたが、大極殿に相応しい礎石立ち・瓦葺の建物に変更されます。しかし、大極殿院と呼べるような広大な儀式空間は確保されず、これに合わせて儀式の内容も変質していったことが想定されます。

東区での大極殿建築にともない、南側の朝堂も掘立柱から礎石立の建物へと建て替えられました。このエリアでは引き続き日常政務が行われましたが、政務の内容も徐々に変質していったようです。

後期平城宮東区|平城宮いざない館(模型)
下から朝集堂院、朝堂院、大極殿院、内裏。左隅に見える中央区は前期の様子で復元されているため、見学時には注意が必要。

儀礼空間(中央区)と政務空間(東区)が分離していた前期平城宮の特徴は崩れ、両者の機能は東区に取り込まれてしまいます。しかも、前期平城宮では、中央区の朱雀門から大極殿までの空間が天皇の威儀を示すために設計されましたが、後期平城宮ではその思想を体現させる空間が中央区にも東区にもありませんでした。聖武天皇にとって平城宮はもはや何の思い入れもなかったようです。東大寺の建立に後半生のすべてを捧げたのかもしれません。

東区後期大極殿跡
奥に見えるのは復元された中央区前期大極殿。これより一回り規模の小さな大極殿が東区に建設された。礎石がいまに残っている。
東区大極殿院跡|大極殿跡から撮影
手前から幢旗復元、大極殿閤門跡。閤門からは回廊が伸びており、大極殿を取り囲んでいる。奥には朝堂院が広がり、朝堂基壇が復元されている。

朝堂の南側には、始業前の臣下が集まる朝集堂がありました。この建物だけは、前期からすでに礎石立だったことが発掘から推定されており、東区の中では特殊な変遷を辿ったようです。東西の朝集堂のうち東側のものはのちに唐招提寺の講堂として移築されました。姿は大きく改造されていますが、唯一の平城宮遺構として現存しています。

東朝集堂|平城宮跡資料館(模型)

東区北側の内裏も引き続き天皇の日常空間として機能し続けます。中央区に西宮が建設され太上天皇が移ったことで、より天皇を中心とする空間が整えられていきました。天皇が内裏の外に出御して行っていた政務も内裏の中で完結するようになっていくとともに、これまで宮の外に営まれた皇后宮が内裏の中に取り込まれるようになるのです。

内裏跡|東区大極殿から撮影
手前の礎石は大極殿院後門。奥側の植木は内裏の柱跡を再現している。
内裏正殿|遺構展示館(模型)
内裏の建物は天皇の代替わりを目安に10〜20年ごとに建て替えられた。この復元は模型は聖武天皇の時代を想定。

聖武天皇のため、君主に相応しい空間が整備された平城宮。しかし、聖武天皇自身によって王宮は捨てられ、さらに大きく改造が施されたことで、天皇の威儀を示す空間は崩壊してしまいます。現在でも、前期平城宮の華やかな姿で復元が進む中央区に対して、東区は後期平城宮の礎石が寂しく残るばかり。後期平城宮を引き継いだ称徳天皇の時代、王宮は再び混乱へ陥っていくのでした。

基本情報

  • 指定:特別史跡「平城宮跡」、世界遺産「古都奈良の文化財」
  • 住所:奈良県奈良市二条大路南
  • 施設:国営平城宮跡公園(外部サイト)