前期平城宮|聖武天皇のために築かれた平城京の王宮 Part1

奈良時代を象徴する聖武天皇。東大寺をはじめとする仏教寺院や正倉院の宝物など、奈良のまちに今も残る文化遺産は聖武天皇にまつわるものばかりです。奈良の都、平城京自体が聖武天皇のために築かれたと言っても過言ではありません。その中心となる平城宮の変遷を見ながら、聖武天皇の歴史を辿ってみたいと思います。

聖武天皇の即位前(元正天皇・元明天皇)

平城宮の主人公である聖武天皇は、実は順調に即位したのではありませんでした。聖武天皇の父、文武天皇は707年、藤原京で死去しましたが、このとき聖武天皇(首皇子)は7歳。天皇位はおろか皇太子になるのでさえ幼すぎる年齢でした。そこで、文武天皇の母、阿閇皇女が元明天皇として即位。中継ぎの女帝と言われる時代が始まります。

元明天皇はまず藤原京から平城京への遷都に取り掛かります。来るべき首皇子即位を見据え、天皇の権威に相応しい都を作ろうとしたのです。また、代々の天皇の歴史を綴った古事記の編纂を開始。古事記編纂の本来の目的は、国史としての日本書紀とは違い、首皇子の帝王教育のためだったのではないかとも言われています。また、風土記の編纂を新たに指示し、地方各地の実態把握に取り掛かりました。これもまた来るべき首皇子治世の時代を見据えた事業でした。

平城宮の主要部分が完成した翌715年には、首皇子をともなって元日朝賀を執り行います。この年、首皇子は立太子し、それを受けて元明天皇はすぐさま譲位を行いました。しかし、即位したのは首皇子ではなく、元明天皇の娘、氷高内親王でした。なぜ首皇子ではなく氷高内親王だったのでしょうか。このとき、首皇子は15歳。元服を済ましたとはいえ、天皇になるには後見人が必要な年齢です。50歳を過ぎ健康にも不安が出てきた元明天皇にとって、首皇子が一人前になるまで後見を続けるのは困難。後見の役目は娘の氷高内親王に任せざるをえなかったのでしょう(この6年後に元明天皇は崩御)。

こうして氷高内親王は二人目の中継ぎ女帝として天皇位につきました。元正天皇の時代には、三世一身の法が出されるなど百万町歩開墾計画が推進され、国土の開発が進みます。そして、724年、元正天皇は譲位し、満を持して首皇子が即位。聖武天皇の誕生です。文武天皇崩御の時、すでに首皇子は皇位につくべき皇子として目されていましたが、その即位には17年もの年月がかかったのでした。

聖武天皇前半の治世

即位までに長い年月を経た聖武天皇ですが、その前半の治世は多難の連続でした。729年、天武天皇の孫で、左大臣を担っていた長屋王によって謀反が企てられます(長屋王の変)。未遂のうちに暴かれましたが、皇族を代表する重鎮の謀反に聖武天皇はひどくショックを受け、長屋王とその家族を自殺に追い込んでしまいます。この処置には皇室内に動揺が走りました(のちに長屋王は冤罪だったことが判明)。

735年には、深刻な飢饉にみまわれると同時に、全国に疫病が蔓延。政府機能が停止するほどの大混乱に。続日本紀には「この年、頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、疫病を患い、夭死するもの多し」「公卿以下天下の百姓相継ぎて死ぬること、あげて数うべからず」などと記される悲惨な状況に陥ります。

疫病が終息した後も、社会の混乱に有効な対策を打てなかった聖武天皇に対して、藤原広嗣が九州で反乱を起こします(739年)。自然災害や臣下の謀反を前に、自分の無力さを痛感したのか、聖武天皇は平城京を出奔し、各地をさまよい始めました。この彷徨は5年も続き、都は平城京から恭仁京へと遷都されてしまうのです。

前期平城宮

平城京遷都(710年)から恭仁京遷都(740年)までの平城宮は特に「前期平城宮」と呼ばれます。聖武天皇のために整備された前記平城宮はどのような宮だったのでしょうか。

平城宮は1km四方の正方形に、東面の一部が外側に張り出した特異な形をしていて、大きく4領域で構成されています。ここでは便宜的に、西区・中央区・東区・東張り出し部と呼びます。

    • 中央区には、儀礼空間としての朝堂院と大極殿院
    • 東区には、政務空間として朝集院と朝堂院、その北に天皇の日常住まいとして内裏
    • 西区と東張り出し部には、主に曹司(役所)
前期平城宮中央区|平城宮いざない館(模型)
下から朝堂院、大極殿院。ともに儀礼空間として整備された。
中央区大極殿院|平城宮跡資料館(模型)
中央区の中でも大極殿院は天皇の威儀を示す、最も重要な空間だった。

このように前期平城宮では儀礼空間(中央区)と政務空間(東区)が分離していました。これは、前期平城宮の大きな特徴です。中央区では、南から朱雀門、大極門、大極殿が一直線に並び、王宮の威容を示す空間設計が成されていました。これらの建物はすべて、礎石立ち、朱塗りの柱に白壁、瓦葺き屋根、と中国風の建築様式が採用されました。

朱雀門
大極門
大極殿

大極殿院は公的な儀式が行われる場所です。715年の元明天皇の元日朝賀や、元正天皇と聖武天皇の即位式のときは、天皇がこの大極殿に出御しました。

大極殿に天皇が出御する様子|平城宮跡資料館(模型)
大極殿院での儀式の様子|平城宮いざない館(模型)

天皇はときに大極門まで降り、朝堂院に集まる臣下とともに饗宴を行ったとのこと。しかし、中央区で最も重要な舞台である大極殿は、聖武天皇による遷都にともなって恭仁京へ移転されてしまい、そのまま山城国国分寺の金堂になってしまいます。

東第二朝堂|東第一朝堂から撮影
遠くに見えるのは朱雀門。
朝堂院|平城宮いざない館(模型)
手前が大極殿院、大極門を挟んで奥が朝堂院(北から)

一方、東区では、南から朝集堂、朝堂、内裏外郭正殿、内裏正殿が立ち並び、天皇が日常生活と日常政務を行いやすい空間設計になっていました。朝堂、内裏外郭正殿、内裏正殿は日本古来の掘建柱建物による建築です。

朝堂は官人たちが日常業務を行う場所です。一方で、内裏外郭正殿(大安殿とも呼ぶ)は天皇が大臣たちの上奏を聞いて朝政(聴政)を行う場所でした。聖武天皇は733年に初めてこの正殿に出御し、政務を見たとのことです。

このように、中央区と東区の建物は用途が異なり、それに相応しい様式で建築されました。特に前期平城宮では、藤原宮の課題だった「天皇の王宮に相応しい儀式空間」が中央区に整備されます。朱雀門・大極門・大極殿が一直線に配置された空間が、王宮の威容を示す設計になっていたのです。

こうして、聖武天皇のために整えられた平城宮でしたが、聖武天皇即位後16年で王宮は捨てられ、重要だった大極殿は新しい都に移ってしまいます。早くも、前期平城宮の中心空間は崩れてしまうのでした。

基本情報

  • 指定:特別史跡「平城宮跡」、世界遺産「古都奈良の文化財」
  • 住所:奈良県奈良市二条大路南
  • 施設:国営平城宮跡公園(外部サイト)