鴻臚館跡|平安時代の対外交流 遣唐使による公式外交から商人による民間貿易へ

平安時代の対外交流

奈良時代に律令国家として確立した日本には「人臣に外交無し」という原則がありました。これは「天皇以外の者が外交を行うことを禁止する」もので、中国・唐の模倣です。具体的には外国への渡航・海外品の購入・公式使節以外の人民の受け入れなどを、天皇の許可なく行うことが禁止されていました。

遣唐使船|鴻臚館跡展示館(模型)

天皇に任命・許可され、正式な使節として唐に渡る者が遣唐使です。奈良時代は遣唐使によって多くの思想や文物が国内にもたらされたことで、日本の国家制度が整い、仏教建築や仏像などの天平文化が栄えました。また、朝鮮半島から渡ってきた新羅人を「天皇の徳を慕ってきた人々」として東国などに移住させ、日本に帰化させていました。このように奈良時代の日本は海外に対して開かれた政策をとっていたのです。

しかし、平安時代に入ると日本の外交政策は徐々に変化していきます。奈良時代の80年弱の間に約10回も派遣された遣唐使は、平安時代になるとわずか2回に激減。894年に企画された通称「寛平の遣唐使」は実現せず、これを最後に遣唐使の歴史は幕を閉じます。朝鮮半島からの難民に対しても、入国させずに食料や衣類などを持たせて半島へ帰らせる対応を取り始めました。

この背景には、唐が国内の反乱や周辺国の侵略によって800年代に入ってから徐々に国力を失い始めたことがあります。危険を冒して正使を遣わせてまで唐文化を摂取する必要性が薄れていたのです。また、唐の衰退によって周辺海域の監視が緩み、海賊が増加しました。徳を慕う人なのか海賊なのか分からない外国人を容易に受け入れることができなくなったのです。こうして日本は海外に対して門戸を閉ざすようになりました。

鴻臚館での貿易

天皇主導による唐への遣使や外国人の受入れが行われなくなった平安時代ですが、対外交流が消滅したわけではありません。唐・新羅でも商人の勝手な出国は認められていませんでしたが、国内の統制が緩んだ結果、日本との交易を企てる商人たちが私的に来日してきたのです。彼ら民間主導の貿易に中央政府が公式に介入するという政策が始まるのです。

この民間貿易が行われた施設が筑紫国に置かれた鴻臚館(こうろかん)です。この施設は奈良時代まで筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれる外交拠点でしたが、平安時代になって鴻臚館と呼ばれるようになり貿易の拠点となっていきます。

平安時代鴻臚館復元イメージ|鴻臚館跡展示館
右手下が海岸。右上は入り江。

鴻臚館跡の北側には近世に築かれた城郭の水堀がありますが、当時はここまで海が迫っており、唐船や新羅船が着港していたようです。ここから南側を向くと、2つの建物群が南北に並んで建てられていました。古代の建物には珍しく東向きに門を開く配置です。

鴻臚館跡北側
北側には埋立地が広がるが、当時は水堀あたりまで海岸線だった。

この北と南の建物は全く同じ構造だったとのことですが、詳細な用途はわかっていません。来日した商人たちは長期に渡って鴻臚館に滞在したそうなので、彼らが滞在するための宿坊、荷揚げした交易品の保管庫、鴻臚館に勤める官人の執務室などがあったのでしょう。

北館の門跡|西を向いて撮影
北館跡|南西を向いて撮影
舗装表示された門と塀は筑紫館(奈良時代)のものだが、鴻臚館(平安時代)も位置はほぼ同じ。
南館の門跡|西を向いて撮影
奥の建物は鴻臚館跡展示館。
南館跡|南西を向いて撮影
舗装表示された塀は筑紫館(奈良時代)のものだが、鴻臚館(平安時代)も位置はほぼ同じ。
堀跡|西を向いて撮影
北館(右手)と南館(左手)の間には堀があり、堀の内側では石を積んで土留めされていた。現在は埋め戻されているが、左右より浅い面が残る。

奈良時代には掘立柱建物だった筑紫館は、平安時代になると配置はそのままに礎石建物の鴻臚館に建て替えられます。このときに大規模な回廊のようなものが整備されたようで、展示館内に南館の様子が一部復元され、遺構展示されています。

復元回廊|鴻臚館跡展示館
低い基壇の上に建てられた南館西端の建物。回廊か長屋だと見られている。
復元回廊|鴻臚館跡展示館(南を向いて撮影)
幅6mで南北に伸びる。
回廊跡|南を向いて撮影
展示館内の復元回廊からさらに南側。礎石が残る。
南館建物|鴻臚館跡展示館(南東を向いて撮影)
復元されている西端の建物から東側に、南北に長い建物が2棟建っていた。礎石と基壇跡が残る。基壇の間は通路か。

鴻臚館跡では商人たちがもたらした白磁や青磁の椀・皿、遠くイスラムの青緑釉陶器などが出土しています。香料や毛皮などの珍品が人気の交易品だったようです。これらの品々と交換するために、主に陸奥産の金が支払われました。

唐の白磁椀|鴻臚館跡展示館
唐の青磁灯明皿|鴻臚館跡展示館
イスラムの青緑釉壺|鴻臚館跡展示館
新羅の陶器甕|鴻臚館跡展示館

民間貿易の実態

平安時代の中央政府はどのように民間貿易を統制したのでしょうか。まず、鴻臚館に唐や新羅の商人が来航すると、大宰府によって朝廷に報告が届きます。報告を受けた朝廷では、商人を留め置き交易を行うか、交易を行わず自国に帰らせるかを決定するために公卿たちによる会議が開かれました。外交自体には消極的な中央政府も、商人がもたらす「唐物」を熱望しており、様々な理由をつけて鴻臚館に留め置くよう大宰府に指示したようです。

その後、都から「唐物使(からもののつかい)」が鴻臚館に派遣され、天皇のために購入する品物を確保し都に輸送します。残った物品は一般の交易用に回されました。都に届いた品々は天皇に奏上されたあと、一部は公卿や有力な貴族に下賜されたようです。上流貴族の間では唐物が流行しており、これらの品々が貴族たちの権威付けになっていました。

廃棄された陶磁器の出土状況|鴻臚館跡展示館(復元)
火災などによって割れた皿や椀が大量に廃棄された跡。1047年に放火されたことが窺える記録が残る。

衰亡していた唐は907年に滅び、内乱を経て960年に宋が建国されます。また朝鮮半島でも935年に新羅が滅亡し、代わって高麗が起こりました。そのような中で日本は外交方針を変えず、宋や高麗の商人と貿易を続けました。しかし、平安時代後期にかけて中央政府による貿易統制は徐々に弱まり、代わって大宰府が交易を独占するようになりました。1015年には「刀伊の入寇」が起こるなど海賊の横行も活発化し、海上交易は新たな時代を迎えます。この頃に鴻臚館は廃絶したと見られており、代わって貿易の窓口となったのは博多と呼ばれる新しい場所でした。

基本情報

  • 指定:国史跡「鴻臚館跡」
  • 住所:福岡県福岡市中央区城内
  • 施設:鴻臚館跡展示館(外部サイト)