文殊院西古墳|阿倍氏ゆかりの地で、7世紀の終末期古墳を巡る

終末期古墳とは

古墳時代とは、平たく言うと「前方後円墳が築造された時代」です。6世紀後半の五条野丸山古墳(欽明天皇の陵墓と考えられている)を最後に巨大な前方後円墳は築造されなくなり、これをもって古墳時代の終わりとすることが多いです。しかし、古墳の造営自体が終わったわけではありません。時代は飛鳥時代(7世紀)へと入っていきますが、その後もしばらく円墳や方墳は造られ続けたのです。この時代に築造された古墳のことを、特に「終末期古墳」と呼びます。

終末期古墳の特徴は、大きな石材を使って石室を形成していることです。墳丘は小ぶりでも石室はとても立派に作られており、こんな巨大な石をどうやって運んできたのか驚くばかりです。やがて切石が用いられるようになり、見た目にも大変美しい石室が形成されていきます。一方で、6世紀までは豪華だった副葬品は貧相になり、日常的に身に着けていた装身具をわずかに埋葬する程度になります。7世紀半ばに「大化の薄葬令」と呼ばれる詔が出され、墳丘規模や副葬品に規制が加えられるようになったことが背景にあるようです。また、追葬できることが横穴式石室の特色であるにもかかわらず、単葬化が進みました。やがて横口式石槨と呼ばれる単葬用の埋葬施設が現れたりするのもこの時期の古墳の特徴です。

阿部丘陵の終末期古墳群

「終末期古墳」とはいったいどのような古墳だったのでしょうか。奈良県桜井市の阿部丘陵を巡って、終末期古墳の実物を見ていきましょう。

谷首古墳

まずは谷首古墳を見てみましょう。谷首古墳は阿部丘陵の西側に築造された、一辺35m程度の方墳です。7世紀初頭の築造と見られています。

谷首古墳墳丘|南東隅から撮影
谷首古墳石室入口

玄室の大きさは幅3m・奥行き6m・高さ4m。天井が高いのが特徴で、どことなく石舞台古墳の内部に似ています。床には礫を敷き詰めていた痕跡が残っていました。

谷首古墳玄室

艸墓古墳

続いて艸墓古墳(くさはか)です。艸墓古墳は阿部丘陵の北側に築造された、一辺25m程の方墳で、7世紀前半の築造と見られています。

艸墓古墳墳丘|西側から撮影
艸墓古墳石室入口

玄室の大きさは幅2.5m・奥行き4.5m・高さ2.0m。谷首古墳とは逆に天井がかなり低いのが特徴です。石室内には刳貫式の巨大な家形石棺が残っていて、これはこれで驚嘆するのですが、玄室が狭すぎて思うように歩けず見学に難儀します。「これでは石棺を運びいれるのも大変だったろう」と思いを馳せてしまいます。

艸墓古墳玄室

そういうわけでこの古墳では、石棺を安置したあとに石室を構築する、という通常とは逆の工程で造営されたことが想定されているようです。追葬不可能な狭い玄室を見ると、単葬用の横口式石槨に通ずるものを感じます。

艸墓古墳玄室側壁

文殊院東古墳

続いて文殊院東古墳です。阿部丘陵の西側に築かれた古墳ですが、発掘調査が行われていないため、円墳か方墳か定かではなく墳丘規模も不明です。

文殊院東古墳墳丘|南側から撮影
文殊院東古墳玄室

玄室は幅2.5m・奥行き4.5m・高さ2.5mですが、残念ながら内部に入ることはできません。羨道部には切石も使用されており、石材が自然石から切石へ変化する過渡期にあたる古墳と見られ、7世紀前半の築造と見られています。

文殊院西古墳

最後に文殊院西古墳です。文殊院東古墳のすぐ近くに築かれています。後世の削平が大きく、はっきりとは分かっていませんが一辺30m程度の方墳と見られています。

文殊院西古墳墳丘|北西から撮影
文殊院西古墳石室入口

玄室規模は幅3m・奥行き5m・高さ2.5m。築造は7世紀半ばのようです。長方形に丹精に整えられた切石を使っているのが一番の特徴で、玄室内部は「こんな構造物を7世紀に作れたのか」と、その美しさに見惚れてしまいます。

文殊院西古墳玄室

切石は、いまのようにカッターで切り落とすのではなく、ある程度の大きさまで割った後に表面を叩いたり磨いたりしながら長方形に仕上げていく、気の遠くなるような地道な作業を伴います。近世城郭の石垣に切石が使われるずっと以前に、これだけ精美な石造物が作られていたことに驚くばかりです。

文殊院西古墳玄室側壁
下段右の縦線は、切石を模して擬似的に刻まれている。

石材の中には切石に似せた擬似的な線が刻まれており、この古墳の特徴的な工法になっています。ここまでして統一的な積み方をしているように見た目をこだわったということですが、よほど几帳面な美的センスの持ち主が築造に関わっていたのでしょうか。

文殊院西古墳玄室天井石

また、天井の一枚岩にも驚くばかりです。どれほどの重量なのか不明ですが、100トンくらいはありそうです。羨道から玄室側壁までの美しい切石、天井の圧巻の一枚岩、これらを使って破綻なく石室を構築する技術力たるや。現在の技術水準で作ってもこれ以上のものを作ることは難しいのではないでしょうか。「横穴式石室の極致」と言っても決して言い過ぎではないでしょう。

飛鳥時代の阿倍氏

阿部丘陵上に築造された古墳を巡って、終末期古墳を見てきましたが、文殊院西古墳のような精美な古墳に埋葬された人物はいったい誰だったのでしょうか。その候補者の一人が阿倍内麻呂です。彼は、大化の改新後の孝徳天皇の政権下で左大臣を務めたほどの実力者で、その死に際しては天皇も慟哭したと言われます。

とはいえ、阿倍氏と聞いても、あまりピンとこないのが実情ではないでしょうか。平安時代になると陰陽師で有名な安倍晴明などが登場しますが、飛鳥時代ではどちらかと言うと影の薄い氏族かもしれません。それでも、前述の阿倍内麻呂や、斉明天皇のときに蝦夷征討に向かった阿倍比羅夫などが日本書紀によく出てきます。

古墳の周辺には安倍文殊院やその前身となる安倍寺跡もあり、阿倍氏ゆかりの地となっていますが、「阿部」の地名からも分かるとおり、阿倍氏の姓(かばね)は地名とセットになる「臣(おみ)」です。蘇我氏や巨勢氏などと同様、大和に拠点となる土地を持ち、有力な氏族として政権内で重きを置かれる一族でした。文殊院西古墳の石室に相応しい名族なのです。

基本情報

  • 指定:特別史跡「文殊院西古墳」、国史跡「艸墓古墳」、奈良県指定「谷首古墳」「文殊院東古墳」
  • 住所:奈良県桜井市阿部 外
  • 施設:安倍文殊院(外部サイト)