綿貫観音山古墳|古墳の副葬品に見る、上毛野と朝鮮半島のつながり

6世紀の朝鮮半島情勢

6世紀の朝鮮半島は三国時代の真っただ中にありました。三国時代とは、朝鮮半島の北半分に高句麗、南半分の東側に新羅、西側に百済の三国が鼎立する時代のことです。さらに半島の南端では、新羅と百済の隙間を埋めるように小国が群立しており「伽耶」と呼ばれる地域も形成されていました。日本(当時「倭」)はこの伽耶と深い交流があり、技術系の渡来人を受け入れ、鉄器や須恵器の生産技術をはじめ、馬の飼育方法など国力の増強に直結する様々な技術を摂取していました。

倭は伽耶だけでなく百済とも交流があり、仏教や医術、暦や易など最先端の文化・思想を移入していました。これらは中国で発祥したものでしたが、当時倭は中国との直接的な交流がなかったため百済を経由して倭にもたらされていました。中国はこのとき南北朝時代に入っており、百済は新羅とともに南朝(梁)へ朝貢していましたが、やがて新羅は百済を凌駕するようになり北朝(北斉)への朝貢を始めます。

こうした状況の中、百済と新羅は強国・高句麗が君臨する北側とは反対の方向へ領土を拡大するべく伽耶地域の侵略を試みるようになります。特に新羅は6世紀前半に伽耶南部を併呑してしまうため、倭国は伽耶を救援するために軍隊の派遣を試みます。しかし、新羅と親交のあった九州の豪族・筑紫君磐井の妨害を受け、援軍は思うように進まず、そうこうしているうちに伽耶は新羅によって完全に征服され、滅亡してしまいます。この後、倭は百済との結びつきをさらに深めていくのです。

綿貫観音山古墳の石室副葬品

このような倭と朝鮮半島との交流を物語る出土品が、上毛野(いまの群馬県)にある6世紀後半の綿貫観音山古墳で発見されました。石室の副葬品として出土した品々はすべて国宝に指定され、古墳近くの群馬県立歴史博物館に展示されています。

綿貫観音山古墳|後円部側から撮影

まずは銅鏡。出土した2面うち1面は霊獣を帯状に半肉彫りした「獣帯鏡」で、百済の王墓から発見された鏡と同型のものでした。この百済王墓は中国南朝(梁)の文化の影響が強く見られる石室や出土品を持っていたことから、この獣帯鏡も梁との関係が示唆されます。

綿貫観音山古墳出土獣帯鏡■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館

次は「突起付冑」です。この冑の特徴は、縦型の鉄板を横に並べて鉢を形成し、頂部に突起をつけている点です。このころの倭国で一般的な冑は突起の付いていない「衝角付冑」と呼ばれる種類のもので、突起付冑は朝鮮半島南部の影響が見受けられるようです。

綿貫観音山古墳出土鉄冑■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館

続いて「雲珠・辻金具・飾金具・杏葉」です。これらの金剛製品はすべて馬具の一種です。鞍を馬の背に固定するためには馬の尻側に革帯を装着させますが、雲珠や辻金具などはその革帯の装飾です。これらと似た馬具が新羅の王陵からも出土しているようです。

綿貫観音山古墳出土雲珠・辻金具■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館
綿貫観音山古墳出土杏葉■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館

最後に銅製の水瓶です。形状が玉子のようでもあるので、点を取って「王子形水瓶」とも言われ、古代インドから仏教とともに中国に伝来したと見られています。蓋にピンセットのような落下防止板がついているのが特徴で、北朝(北斉)で類似品が出土しているとのことです。

綿貫観音山古墳出土水瓶■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館

このように、綿貫観音山古墳の副葬品には、当時の朝鮮半島と中国大陸の影響を受けたものが多く見られました。これらの品々が朝鮮半島から直接もたらされた舶載品なのか、渡来人が倭国内で製作した倭製品なのかは分かっていませんが、どちらにしろ当時の倭国が朝鮮半島や中国の複雑な情勢下においても積極的に外来の文物を摂取しようとしていた一端を垣間見ることができるのです。

古墳の副葬品はどのように上毛野へもたらされたのか

出土した品々が舶載品か倭製品かも気になるところですが、綿貫観音山古墳の被葬者はこれら優品をいったいどのようにして入手したのでしょうか。

綿貫観音山古墳|群馬県立歴史博物館(復元模型)

綿貫観音山古墳は全長97mで二段築成の前方後円墳で、当時の上毛野では大規模なものでした。墳丘上には円筒埴輪や形象埴輪が配列され、特に石室の入口には特殊な人物埴輪を置いて祭祀の場面を表現してようです。

綿貫観音山古墳出土人物埴輪■国宝・古墳時代|群馬県立歴史博物館
左から胡座を組み合掌する男子、三人童女、正座し祭具を捧げる女子、皮袋を捧げる女子。

石室も全長約12.5m、幅約4m、高さ約2.5mと、当時の東国では最大級の横穴式石室でした。壁面には同じくらいの大きさに加工した石を丁寧に積み上げ、天上には3つの巨石を乗せています。最も大きな天井石は一石で22トンもするそうです。

綿貫観音山古墳石室
綿貫観音山古墳石室

このように綿貫観音山古墳は当時東国では最大級の古墳で、被葬者は東国でも大きな力を持っていたことが想定されます。ヤマト王権とも強い繋がりがあったとすれば、王権が入手した(もしくは製造した)品々をもらい受けたのかもしれません。もしくは、筑紫君磐井のような地方豪族が新羅と独自に親交を持っていたように、綿貫観音山古墳の首長もヤマト王権とは別に朝鮮半島との通交を持ち、王権を仲介せずに独自のルートで朝鮮半島の文物を入手していたのでしょうか。当時の東アジアは、朝鮮半島と中国のみならず倭国も含めた複雑な関係性が交錯していたのかもしれません。

基本情報

  • 指定:国史跡「観音山古墳」
  • 住所:群馬県高崎市綿貫町
  • 施設:群馬県立歴史博物館(外部サイト)