岡田山1号古墳|氏姓制と部民制。大刀銘文が示すヤマト王権の統治制度

古墳時代後期(6世紀)の継体天皇以降、ヤマト王権は地方支配の網を大きく広げます。その根幹となったのが、氏姓制と部民制です。この2つの制度について記された1本の大刀が出雲の古墳から出土しました。

岡田山1号古墳

出雲国意宇郡(おう)の岡田山1号墳は6世紀後半ごろに築かれたとされる前方後方墳です。全長21mで二段築成です。

岡田山1号古墳|後方部側から撮影
岡田山1号古墳|前方部側から撮影
後方部の石室入り口
石室と組立式石棺

埋葬部は横穴式石室で、内部からは組合式石棺とともに馬具や大刀など豊富な副葬品が発見されました。

岡田山1号古墳出土品|八雲立つ風土記の丘学習展示館
岡田山1号古墳出土品|八雲立つ風土記の丘学習展示館

出土した大刀の残欠には銀象嵌で12文字の銘文が彫り込まれていました。錆も進行していたため判読できるものはわずかでしたが「各田卩臣□□□□□大利□」と記されています。この「各田卩臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)」と読めることから、氏姓制と部民制が遅くとも6世紀の後半には成立し、出雲のような地方にも普及していたことが分かったのです。そのため6世紀前半ごろ(継体天皇のころ)には、これらの制度が始まったと考えられるようになりました。

円頭大刀■重文・古墳時代|八雲立つ風土記の丘学習展示館
円頭大刀(複製)|古代出雲歴史博物館

氏姓制とは?

氏姓(しせい)制とは、氏(ウジ)と姓(カバネ)によって豪族を序列化する統治制度のことです。「額田部」がウジで、「臣」がカバネです。

ウジは血縁集団の名称のようなもので、蘇我・巨勢・出雲など地名にもとづくものと、大伴・物部・中臣などの職名にもとづくものとの大きく2種類があります。カバネは各ウジの身分を表す標識のようなもので、臣・連・君・直などがあります。臣(おみ)のカバネは地名のウジをもつ一族に与えられ、連(むらじ)のカバネは職名のウジをもつ一族に与えられる傾向があるようです。

例えば、石舞台古墳の被葬者として有名な蘇我馬子の一族は「蘇我臣」で地名+臣。この蘇我氏と争った物部氏は「物部連」で職名+連です。しかし、例外も多くはっきりした仕組みはわかっていないようです。岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣ですが、大刀銘文に記された「額田部臣」は職名+臣でした。

額田部臣の様子|古代出雲歴史博物館(模型)

この氏姓制を使って、ヤマト王権は豪族層を統治しようとしましたが、この制度だけでは、特に地方豪族たちが支配する土地や民衆にまで介入することができませんでした。そこで部民制という別の制度も合わせて作り出します。

部民制とは?

部民制(べみん)とは、地方の豪族が支配する一般民衆を中央に出仕させて王権に関わる職に従事させる制度です。ヤマト王権は、各地に部(ベ)と呼ばれるエリアを設定し、そのエリア内の民衆をトモとして中央に出仕させ、様々な職に従事させました。出仕するトモの手配もろもろは地方豪族がうけおい、一方で中央豪族は各地から参上してきたトモを統率し職務の指揮をとりました。このようにトモに関わる中央・地方の豪族は「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれます。

出雲の伴造である額田部臣(職名+臣)は支配下にあった民衆を中央に出仕させました。こういった額田部は出雲以外の地方にも設置されたようで、各地から出仕してきたトモを束ねて王権に奉仕したのが中央の伴造である額田部連(職名+連)です。額田部のトモは王宮に出仕して王子女の世話をする職に従事していたと考えられています。額田部皇女という諱をもつ推古天皇には、こういった額田部のトモが日常的に仕えていたのでしょう。

部民制

地方の伴造(額田部臣など)と地方広域を支配する国造(出雲臣など)との関係は定かではありませんが、ヤマト王権は国造を介して地方伴造を任命したものだと考えられています。職名のウジには通常「連」のカバネが付くところを、出雲の額田部氏が「臣」のカバネを持つことから、出雲臣と額田部臣とは同族関係にあったことが想定されています。地方の伴造は国造の一族から任命されることもあったのでしょう。

こうしてヤマト王権は、中央・地方の豪族を序列化するとともに、豪族が領有する土地や民衆に対しても支配の網を広げました。それが氏姓制と部民制の役割だったのです。この2つ制度の存在は日本書紀によって6世紀中には整備されていたことが想定されていましたが、6世紀後半の岡田山1号古墳の大刀銘文によってそれが裏付けられることになったのです。

基本情報