大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城
白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた日本は、唐軍の日本侵攻に備えて、筑紫の軍事拠点化を進めます。その最初の防御施設として664年に築造されたのが水城です。水城の築造が行われている頃、大宰府の背後に位置する大野山(「四王寺山」とも)に2人の百済人が赴任します。憶礼福留と四比福夫です。彼らは百済の滅亡時に日本に亡命した軍人で、城の築造に長けていました。彼らによって、四王寺山に朝鮮式山城・大野城が築かれることになったのです。
大野城の築造
大野城の築かれた四王寺山は標高410mで、大宰府政庁の背後にそびえたっています。福岡平野南端、水城の東側に位置しています。山頂を中心に東西1.5km、南北3kmの範囲で城域が形成され、総延長8kmの城壁に囲まれていました。
城門
城内に入るためには城門を通過する必要があります。現在のところ、城門の遺構は9ヶ所見つかっていて、その中で「大宰府口城門」と呼ばれる門が大手門に相当します。幅5mの門で、名前のとおり大宰府側(城の南側)から登ってきたところに築造されていました。
「大宰府口城門」の右手には土塁が伸びてきており、左手には谷部を塞ぐように幅20mの「水ノ手口石垣」が築かれています。谷の下から見上げると、大手門を構成する石垣に相応しい迫力があります。
土塁
「大宰府口城門」から入り、右手に伸びる土塁に沿ってさらに登ると、「尾花地区土塁」と呼ばれる大野城の南面の防備を担う長大な土塁が築かれています。水城と同じ「版築」という朝鮮半島式の土木技術によって固く盛土されていました。
ここ「尾花地区」からは、大野城と一緒に築かれた基肄城も遠望することができます。ここに立てば、烽(とぶひ)を使って基肄城の守備兵とも連絡を取り合うことができたでしょう。
石垣
尾根筋に土塁が築かれたのに対して、谷筋には石垣が築かれました。城の南側には「大石垣」が遺構として残っています。いまは木が生い茂りよく見えない部分もありますが、高さは6mもあります。
そして城の北側には「百間石垣」と呼ばれる大野城最大の石垣が築造されました。いまは林道によって分断されていますが、当時の全長は150m以上あったと推定されています。高さは4m程で丁寧に石垣がつまれていました。谷の下から見上げると、1300年前に築かれたとは思えない迫力があります。北から侵攻してくる唐軍を想定し、最大の砦として築いたのでしょう。
水が流れ込みやすい谷部では流水による土砂の流出を防ぐために、石垣内部まで石を詰め込む「総石垣」と呼ばれる工法が採られています。
建物群
これら城門、土塁、石垣に囲まれた城内には8ヶ所の建物群跡が発見されており、70棟もの建物が建っていたことが分かっています。大規模な「八ツ波礎石群」では3間✕5間の礎石建物が14棟建っていました。また「増長天礎石群」にも土塁の内側に接するように3間✕5間の礎石建物が4棟建っていました。これら建物の大部分は備蓄用の倉庫だと考えられており、中には役所機能を持つ建物があったとも推定されています。ただし、礎石建物になったのは奈良時代に入ってからだと見られており、飛鳥時代の築城当時は掘立柱建物だったようです。
水城・大野城のその後
古代山城には天守や櫓といった中世・近世の城郭に見られる施設はないものの、十分な防御性を備えた構造であり、籠城にも耐えられる用意が施されていました。特に「百間石垣」を中心とする石垣・土塁は、大野城が実戦に備えた軍事施設であることを強く感じさせます。
これらの軍事施設は、名もなき民衆によって築造されました。彼らは白村江の敗戦で疲弊していましたが、これに追い打ちをかけるように労役が課され、基肄・大野城、そして水城は築造されたのです。それほど、当時の日本に危険が迫っていたことを想像させます。
こうして筑紫の軍事拠点化は完了しました。しかし、幸運なことにこれら軍事施設が実戦で使われることはありませんでした。668年、唐が高句麗を滅ぼしたことで朝鮮半島情勢は新たな局面を迎えます。これまで唐と手を組んでいた新羅が今度は唐と対立するようなったのです。そのため、唐の日本侵攻は棚上げになり、そのまま唐軍が日本まで攻めてくることはありませんでした。
やがて水城は大宰府の正式な玄関口になり、大野城の築かれた四王寺山は信仰の場になっていきます。時代は移り、水城と大野城の役割も変わっていきましたが、今に残るその佇まいは、660年代当時の日本列島の緊迫感を間違いなく現代に伝えています。
基本情報
- 指定:特別史跡「大野城跡」
- 住所:福岡県糟屋郡宇美町四王寺、太宰府市坂本 外