大友氏遺跡|九州豊後のキリシタン大名・大友宗麟(義鎮)の盛衰
大友氏の最盛期を築いた大友義鎮
大友氏は、鎌倉時代に豊後国守護職として入部して以降、この地を支配する伝統的な守護大名でした。戦国時代に入り、第21代当主・大友義鎮(よししげ)によって支配領域を広げ、最盛期を迎えます。
1550年に家督を継いだ義鎮は豊後国から積極的に外に打って出て、豊前と筑前を武力で征圧。1559年には室町幕府から両国の守護職に任命され、名実ともに支配下に置くことに成功します。
武力による侵攻を行う一方で、義鎮はポルトガルとの南蛮貿易にも力を入れ、陶磁器、生糸、硝石、砂糖などを輸入しました。当時の南蛮貿易はポルトガル本国との直接取引ではなく、マカオを本拠とするポルトガル人との中継貿易でした。そのため、輸入したものは中国産や東南アジア産のもの。ビロードや眼鏡、ガラス器などいかにもヨーロッパ的な品物は貿易品ではなく、ポルトガル人からの土産品として国内にもたらされたのです。
さらに、日本に滞在していたフランシスコ・ザビエルを自邸に招き、豊後国内でのキリスト教の布教を認め、ヨーロッパへの使節の派遣を約束するなど、キリスト教への帰依を深めていきます。使節の派遣は、伊藤マンショをヨーロッパに派遣する天正遣欧使節団として、1582年に実現しました。
義鎮によるこれらキリスト教政策は、南蛮貿易の利権を見越したものです。実際、戦争物資である硝石(火薬の原料になる)を他の戦国大名に輸出せず自分だけに独占的に輸出するよう、キリスト教司教へ働きかけています。義鎮は、キリスト教をうまく利用しながら南蛮貿易を有利に進め、支配領域を拡大しようとしていたのです。
ザビエルも見た?大友氏館の庭園
サビエルと会談した場所として想定されているのが大友氏館です。大分川の左岸に築かれ、200m四方に及ぶ広大な敷地を持っていました。
館の西側には家臣の屋敷が立地し、館の東側から大分川の間には市町が広がっていたと想定されています。大分川の河口付近には貿易に使われた港があったと想定されているため、貿易品は大分川をのぼり、ここで市町に卸されていたのでしょう。
館内には「大おもて」と呼ばれる建物があり、政治や儀式を行う建物として館の中心的な役割を担いました。館の門は東側に開き、この大おもてにつながっています。
大おもての南側には館の敷地1/8に相当する広さの池泉庭園がありました。現在は庭園の周囲を歩けるようになっていますが、当時の遺構には橋や通路跡が見つからなかったため、回遊式ではなく座観式の庭園だったと考えられています。
庭園の東西で景観が大きく異なることから、観賞地点も複数個所あったことが想定されています。義鎮とザビエルは、庭園を観賞しながら今後のキリスト教の布教や南蛮貿易などについて会談したのかもしれません。
島津氏による豊後侵攻
大友義鎮は、1562年に剃髪して宗麟(そうりん)と名乗るようになっていましたが、さらに1578年にドン・フランシスコという洗礼名をもらってキリシタン大名になります。宗麟はキリスト教国家を作る理想を掲げ日向国への侵攻を始め、南九州(大隈・薩摩)を支配する島津氏と直接対決することになりました。
しかし、この戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失ってしまったことで、領国だった豊前や筑前で反乱が勃発し、家臣の離反も招いてしまいます。これをきっかけに、大友氏の衰退がはじまり、じわじわと島津軍の侵攻を許すことになります。
島津氏の圧迫に耐えかねた大友宗麟は大坂城まで出向き、本州をほぼ統一していた豊臣秀吉に救援を要請しました。しかし、秀吉が救援にかけつける前に島津軍が豊後に侵攻し、大友氏館をはじめ府内全域は焼け野原となってしまうのです。その後、九州に上陸した豊臣秀吉が島津氏征討を終えようとする1587年、宗麟は豊後の復興を見ることなく病死しました。
宗麟の死後、大友氏には豊後一国が安堵されましたが、宗麟の息子・義統(よしむね)が文禄・慶長の役で失態を犯したことで改易され、豊後は秀吉の直轄地となってしまいます。大友氏館跡の庭園は灰燼となったまま忘れ去られ、府内の拠点は府内城という近世城郭へと場所を移していくのです。
基本情報
- 指定:国史跡「大友氏遺跡」
- 住所:大分県大分市顕徳町 外
- 施設:南蛮BVNGO交流館・大分県立埋蔵文化財センター内BVNGO大友資料館(外部サイト)