西大寺|藤原仲麻呂に勝利した称徳天皇の御願寺

孝謙太上天皇と藤原仲麻呂

聖武天皇から皇位を引き継いだ孝謙天皇は、10年弱の治世ののち、758年に大炊王(淳仁天皇)へ譲位します。母である光明皇太后の看病に専念するためでした。しかし、退位後も太上天皇として隠然たる影響力を持って淳仁天皇の上に君臨していました。淳仁天皇はもともと天皇候補ではありませんでしたが、孝謙天皇の指名によって立太子し、皇位についた身上。太上天皇には頭が上がらない事情があったのです。

淳仁天皇に強い影響力を持っていたのは、太上天皇だけではありません。藤原仲麻呂という藤原家の有力者もそうでした。むしろ淳仁天皇を陰で操っていたのは彼の方でしょう。仲麻呂は、立太子する前の大炊王とその妻・粟田諸姉を自分の邸宅に住まわせて世話をしていました。粟田諸姉はもともと仲麻呂の長男と結婚していましたが、長男の死後未亡人となっていたため、仲麻呂の勧めで大炊王と再婚していたのです。仲麻呂と大炊王の間には血のつながりはないものの、義父と同居する娘婿ような関係だったのでしょう。大炊王が立太子した背景には仲麻呂の強い推薦もあったようです。こうした事情から、淳仁天皇は仲麻呂の言いなりに近い状態だったのです。

淳仁天皇の後ろで糸を引く孝謙と仲麻呂。この2人をうまく取り持っていたのは光明皇太后でした。光明皇太后は孝謙の実母であるとともに、仲麻呂の叔母にあたる存在。そもそも光明皇太后自身が強大な権威を持っていたため、孝謙と仲麻呂の2人はともに光明を後ろ盾としながら協調した体制を維持していたのです。しかし、760年に光明皇太后が崩御。空白となった権威を巡って、2人の協調体制は崩壊を始めます。

761年、仲麻呂が近江国に造営した離宮(保良宮)へ孝謙太上天皇と淳仁天皇はそろって行幸し、しばらくの間滞在していました。このとき病になった孝謙太上天皇は、看病にあたった看病禅師の道鏡と関係を深めていったため、仲麻呂から淳仁天皇を通して苦言を呈されたようです。これをきっかけに、孝謙と仲麻呂(淳仁)の間には亀裂が入ってしまいます。平城宮に戻った後、孝謙太上天皇は「国家の大事と賞罰は私が行う。日常の小事と祭祀は今の帝が行われよ」と突如宣言。これで両者の関係は決定的に崩壊したのでした。

平城京|奈良市役所(模型)
平城京の西側から見た図。左下1/4が西大寺。上側(東側に相当)に面する寺院は西隆寺。ともに称徳天皇による創建。

政治や人事の主導権を奪われた仲麻呂は不利な立場へと追い込まれました。孝謙太上天皇はかつて仲麻呂によって左遷された者などを呼び戻しはじめます。これに対して、仲麻呂は畿内周辺の国から徴兵する役職を自らの権限で創設し、実際に兵を集めるよう諸国に指示を出しました。人事的に反仲麻呂体制をつくりはじめた孝謙太上天皇に対して、仲麻呂は軍事的な体制で応酬しようしたのです。

藤原仲麻呂の乱

先に仕掛けたのは孝謙側でした。764年9月11日、孝謙太上天皇は淳仁天皇の居所から、鈴印(駅鈴と内印)を奪おうと兵を出しました。この動きを察知した仲麻呂も兵を繰り出します。両者によって宮内で激しい戦闘が行われました。

佐紀高塚古墳
西大寺から北東に15分程度歩いたところにある孝謙天皇陵。4世紀の前方後円墳と見られており、宮内省の治定に対して疑問の声も。

この前哨戦は太上天皇側が勝利し、鈴印は孝謙のものになりました。特に、天皇を象徴する内印(公文書に押捺する天皇の印)が孝謙の手に渡った効果は大きく、以降、仲麻呂は公式に逆賊となってしまいます。孝謙は時をおかず論功行賞を行うともに、仲麻呂に追いやられていた有力貴族に叙位を行い自陣営に引き込んでいきました。

形勢が不利になった仲麻呂は平城京を脱出し近江国へ向かいます。近江国は藤原家が代々国司に任じられており、仲麻呂が造営した保良宮もあったからです。しかし、仲麻呂に味方する者はほとんどおらず、家族だけを引き連れた孤独な逃亡でした。

この先、仲麻呂は全てにおいて後手に回ります。先回りした孝謙軍によって保良宮に向かう橋を焼き落とされ、仲麻呂は湖西を北上せざるをえなくなります。さらに越前国にも先回りされたため船で琵琶湖への逃亡を試みますが、これも失敗。9月18日に捕らえられ、家族ともども斬首されました。8日間の戦闘は孝謙側の圧倒的な勝利で終わったのです。

その翌月、淳仁天皇は廃位されて淡路に流され、そこで横死しました。孝謙太上天皇は重祚して称徳天皇に。再び天皇として実権を握ることになったのでした。

西大寺

乱のとき、孝謙は戦勝を祈願して四天王像の造立を発願しました。乱の終息後765年から、誓願通りに四天王像の製作に着手、これを祀る四王院を中心に伽藍整備を開始しました。これが西大寺です。

西大寺は平城宮の西、いまの西大寺駅近くにあります。当時は、東の東大寺に匹敵する広大な敷地を有していて、伽藍中央には2つの金堂と2つの塔を内包する金堂院が、その東西には四王院と十一面堂院が立地する巨大な伽藍だったようです。平安時代になって衰退し寺域の大部分は荒廃したため、現在残っている伽藍はごく僅かな部分だけです。

施釉垂木先瓦|平城宮いざない館
西大寺塔地区出土の垂木先瓦。

現在の西大寺の入り口は東門で、入ってすぐ右手に四王堂が建っています。江戸時代に再建されたものですが、その堂宇の建っている土地の高まりは創建当初の基壇跡です。堂内の四天王像も被災を受けて後に造り直されたものですが、足に踏みつけられた4頭の邪鬼だけは創建当初のものが現存しています。

四王堂
創建当初から法灯をつなぐ堂宇。江戸時代に再建されて規模も縮小したが、創建当初の基壇跡が残っており、当時の伽藍の片鱗を示す。

西に進むと、本堂の前に堂々とした佇まいの基壇が。これは五重東塔の跡です。当初この東塔は八角七重塔として設計されました。しかし、礎石を据え付ける作業の間に称徳天皇が発病したため、石の祟りがささやかれ礎石は取り外されました。その際に四角五重塔に設計変更し、今に至ります。発掘調査によって建立途中の八角七重塔基壇も発見されたことから、形が分かるように保存整備されました。四角五重塔の基壇よりも一回り大きかったことが分かります。

東塔基壇・本堂■重文・江戸時代
四角の基壇は創建当初のもの。その下には八角の基壇跡が残る。奥の本堂は、鎌倉時代に東塔を中心とした伽藍の再整備が進んだ際にこの地に移された。

藤原仲麻呂の乱後、淳仁天皇を廃して重祚した称徳天皇は、乱の遠因ともなった道鏡を重用し、専制政治を敷いたと言われます。称徳天皇は、後継者の問題を残しながら奈良時代の終盤に向けて突き進むのでした。

基本情報

  • 指定:国史跡「西大寺境内」
  • 住所:奈良県奈良市西大寺芝町
  • 施設:西大寺(外部サイト)