酒船石遺跡|斉明天皇の祭祀施設か?亀形の導水施設と謎の酒船石

発見された謎の石造物たち

日本書紀の斉明天皇2年の条に次のような記録が残っています。

水工に命じて香具山の西から石上山に至る運河を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に重ねて垣とした。

ここで出てくる「宮」とは斉明天皇が築いた後飛鳥岡本宮のことで、いまの飛鳥宮跡の遺跡に当たります。宮跡の東側と接するように位置するこんもりとした丘は酒船石遺跡(さかふねいし)と呼ばれ、この遺跡が「宮の東の山」に当たると見られています。

酒船石遺跡|飛鳥資料館(復元模型)
北側から撮影した図。飛鳥宮の東側にある丘に築かれた。

丘の中腹あたりで石垣が発見され、その一部が展示されています。花崗岩の基礎の上に砂岩の切石を積み上げたもので、この石垣が丘全体で三重に巡らされていたそうです。これが日本書紀の記述にある「重ねて垣とした」跡だと見られています。この丘は、大規模に盛土をして突き固め(版築という工法)、さらに頂部は平坦に均して人工的に造成されていたことも分かりました。

石垣
出土した石垣の一部が展示されている。切石を積み重ねた石垣が3重で巡らされていた。
石垣
天理市で産出する砂岩が使用されているとのこと。花崗岩の基礎は見えない。

丘の麓と頂上にはそれぞれ奇妙な石造物が設置されていました。1つは北側の麓の導水施設です。

導水施設

これは①切石を積んで作られた注水部、②小判形をした石の水槽、③亀形をした石の水槽の3点からなるもので、①→②→③へと水が流れていく導水施設を構成しています。築造時は①のみで、のちに②と③が追加されたと見られています。この施設の周辺は石敷きがなされ、さらに石段によるテラスで囲まれており、特殊な空間が形成されていました。

導水施設①注水部
使用されている切石は、丘で発見された石積みと同じ砂岩。
導水施設②小判形石槽と③亀形石槽
注水部からの水を②で受けて③に渡し、亀のしっぽから外に出している。

もう1つは丘の頂上の平坦部に設置された石造物です。奇妙な彫り込みがあり、水かなにかの液体を流したことは想定できますが、何に使用されていたのか実態は不明です。

酒船石
長さ5.5m幅2.3mの花崗岩で、一部は欠損している。
酒船石彫り込み
4つの楕円の浅い窪みを細い溝でつないでいる。

この石造物は古くから知られており、「酒を造るための船形の石」という意味で「酒船石」と呼ばれて遺跡全体の名前にもなっています。しかし、この酒船石が単独で機能したのではなく、導水施設も含めた丘全体を巨大な施設として一体的に利用されたことが想定されるようになりました。

土木事業好きの斉明天皇

斉明天皇はなぜこのような施設をつくり、一体なにに使ったのでしょう。水と関係する祭祀の空間だったというのが大方の考えで、ここで浄化された水を禊に使ったのではないかとの見方もあります。しかし、あまりに特殊な施設であるため実際のところよく分かっておらず、利用方法についての様々な説は空想の域を出ないそうです。麓の導水施設の方は、斉明天皇以降も存続し平安時代の中頃まで改修が続けられたことが分かっており、朝廷にとっても重要な施設だったようです。飛鳥資料館では導水施設と酒船石が復元されていて、水が流れている様子を見ることができます。

導水施設|飛鳥資料館(復元)
酒船石|飛鳥資料館(復元)

斉明天皇は土木事業を特に好んだということが日本書紀に記されています。酒船石遺跡を作るために巨大な水路を作って石を運ばせ、その石で石垣を築いたわけですが、この土木工事に動員された人夫の数は水路を作るのに3万人、石垣を作るのに7万人だったと記録されています。当時の民衆はこれを大変に非難したようで、水路のことを「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と呼んだり、「石垣は完成する前にひとりでに崩れてしまうだろう」と揶揄したそうです。

狂心溝跡|北側から撮影(飛鳥東垣内遺跡)
ここで発見された幅10mの大溝が斉明天皇の築いた水路だと見られている。規模は縮小されているがいまでも用水路として利用されている。

酒船石遺跡にまつわる「有間皇子の変」

民衆の非難の声は朝廷内でもやがて知れるようになっていったでしょう。飛鳥時代の名族である蘇我家の一人、蘇我赤兄(そがのあかえ)もその対策に苦慮していたかもしれません。彼はこのころ蘇我家の筆頭に踊り出て朝廷内でも頭角を現しつつありましたが、脇の甘いところもあったのか、斉明天皇を非難する世論についてうかつにも有間皇子にこぼしてしまったのでした。

有間皇子家系図

有間皇子は当時19歳。孝徳天皇の皇子で、かつては皇位につく資格も持っていました。孝徳天皇は斉明天皇の前代の天皇でしたが、中大兄皇子らによる強引な還都によって、難波宮に一人残されたまま失意のうちに病死しました。父親の哀れな最期を見せられ、自分が即位する可能性もほぼ潰えたことで、有間皇子は斉明天皇や中大兄皇子に鬱憤を募らせていたはずです。そこに蘇我赤兄から「民が天皇への不満を募らせております。どうしたらよいのやら」と聞き、世論を味方につけて勇気づけられたことでしょう。もともと精神病のようなものを患っていたみたいなので、思い立ったら自制が効かないところもあったかもしれません。「とうとう兵をあげる時が来たか」と天皇位の奪取を決意したのでした。

これを聞いて「しまった!」と思ったのは他でもない赤兄自身だったはずです。自分の不用意な発言が無用な政争を招きそうになっている。すでに後ろ盾を失っている有間皇子に一体誰が味方するだろうか。敗北は必定である。なんなら自分も加担していると見られ、処罰の対象になる恐れすらある。赤兄は「まだまだお若い年齢なので、どうかお留まりを」と必死に有間皇子を抑えようとしましたが、皇子は謀議を重ねにわざわざ自宅を訪ねてくる始末。赤兄は事ここに至り、脇息の足が折れたことを不吉な前兆とこじつけて決行を中止させ、夜更けになってから有間皇子の邸宅を兵で囲み、斉明天皇と中大兄皇子に事の次第を報告したのでした。

これを聞いた中大兄皇子はどう対応するべきか思案します。彼は皇位を継ぐことがほぼ確実な身だとはいえ、有間皇子の存在は決して快いものではなかったでしょう。「朝廷内の不満分子があいつの元に結集してはとんでもない事態になる。絶対に避けないといけないと思っていたことが現実になろうとしていたとは、俺も油断していた。火種は小さいうちに取り除いておいた方がよいだろう。これを機に有間皇子には亡き者になってもらった方がいいのではないか。そういえば有間皇子を尋問したとき、天と赤兄だけがことの成り行きを知っているはずだ、などと言っていたが赤兄もこの件に一枚噛んでいたのか。いや、赤兄は蘇我家の傍流に過ぎない。奴の器量からして大それた企てはできないだろう。この際、赤兄は助けて恩を売り、死ぬまで忠誠を誓ってもらおう。」そう考えたのかもしれません。

こうして中大兄皇子は有間王子を絞首刑に処し、関係する者にも処罰を下した一方で、蘇我赤兄にはなにも沙汰を下しませんでした。中大兄皇子に借りを作ってしまった赤兄は、中大兄皇子が即位(天智天皇)した後ますます忠勤に励み、左大臣にまで登ることになります。壬申の乱でも大友皇子(天智天皇の息子)の陣営に残って大海人皇子(のちの天武天皇)と戦い、最後まで天智天皇の恩に報い続けたのでした。これが酒船石遺跡に関連して起こった「有間皇子の変」の真相ではないでしょうか。

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