須玖遺跡|奴国の丘歴史資料館で見る、弥生時代の青銅器の工房

青銅器は弥生時代中期の前半に朝鮮半島から日本にもたらされました。当初は銅戈、銅剣、銅矛、銅鏡などの完成品が舶来しましたが、すぐに日本でも製造されるようになります。青銅器製造の技術は弥生時代中期を通して日本に根付き、弥生中期後半には青銅器の工業地帯とも呼べる大規模な工房を構えるに至ります。

その事例が福岡県春日かすが市の須玖すぐ遺跡群です。この遺跡は奴国なこくの領域にあることから、併設する博物館は「奴国なこくの丘歴史資料館」と呼ばれます。ここで青銅器製造の様子を見ていきましょう。

青銅器の原材料は?

青銅は銅、錫、鉛の合金です。原材料は朝鮮半島や中国大陸からの輸入に頼っていました。詳細な成分分析の結果では、銅・錫・鉛と微量元素の配合比が、半島や大陸などで出土した青銅器と同じであることから、原料単体ではなく合金の状態で輸入していたと考えられています。また、鉛に着目して分析を行った結果からは、弥生中期後半までは朝鮮半島の原料を使用し、それ以降は中国の原料を使用していたことが想定されています。

須玖遺跡群では、物の重さを測るために使用する「けん」と呼ばれる石製のおもりが出土しています。これは天秤の分銅のようなものです。製造のために青銅原料の質量を測っていたのでしょうか。

|奴国の丘歴史資料館

青銅器はどのように製作されたのか?

須玖遺跡では青銅器の工房跡が見つかっています。直線的な溝で区画されており、区画内には掘立柱建物が建っていたようです。具体的に銅矛が造られる様子を見ていきます。

青銅器製作の様子|奴国の丘歴史資料館(復元)

最初の工程は青銅器の鋳型をつくることです。鋳型には石材が主に使用されました。2つの石材に同じ型を彫り込み、それを相合わせることで鋳型とします。鋳型から、銅戈、銅剣、銅矛、銅鏃、銅鐸などが製造されていたことが分かります。須玖遺跡では特に銅矛と銅戈が多量に造られたようです。これに加えて、中空の袋部がある銅矛などについては、中子なかごと呼ばれるものも作ります。

次に、青銅を溶かします。溶かすためには炉を設け、1,000℃以上の高温状態を保つ必要があります。炉の形状や仕組みは判明していませんが、酸素を供給する道具であるフイゴの送風管が出土しています。

青銅器製作の様子|奴国の丘歴史資料館(復元)
送風管|奴国の丘歴史資料館

溶かした青銅を鋳型に流し込みます。このときに青銅を注ぎやすいよう、穴のあいた坩堝るつぼを使っていたようです。

青銅器製作の様子|奴国の丘歴史資料館(復元)
坩堝|奴国の丘歴史資料館

最後は鋳型を冷やして製品を取り出します。工房跡では、製造の過程で生じた銅の滓(スクラップ)も出土します。

青銅器製作の様子|奴国の丘歴史資料館(復元)
銅滓|奴国の丘歴史資料館

銅戈・銅矛は何に使われたのか?

ここで生産された銅戈や銅矛は北部九州を中心に、対馬や四国にも流通していたと考えられています。これらの青銅器はなにに使われたのでしょうか。

銅矛・銅戈などの武器型青銅器は、武威を示す威信財として個人の墓に副葬されていました。しかし、弥生時代中期後半になると、銅戈も銅矛も大型化して武器としての実用性は薄れていき、墓以外の場所に埋められるようになります。須玖遺跡群やその近辺でも銅戈や銅矛が大量に埋められていた事例がありました。

中細形銅戈|奴国の丘歴史資料館(原町遺跡出土)
中広形銅矛|奴国の丘歴史資料館(西方遺跡出土)

原町遺跡では、48本もの銅戈が刃を上下にして整然と並べた状態で埋められていました。丁寧に埋められた様子から、何らかの祭祀儀礼が執り行われたことが想定されます。このように祭祀器をなんらかの意図を持って埋める行為を「埋納」と呼びます。武器型青銅器は、個人のための葬送ではなく、集団のための祭祀に用いられるようになったのです。

銅矛の埋納の出土例は、北部九州を中心に中四国地方にも見られる一方で、銅戈の埋納は北部九州に限定しています。また、弥生中期までは銅戈も銅矛もどちらも埋納事例があったのに、弥生時代後期には銅戈の事例は減少しもっぱら銅矛が埋納されるようになりました。弥生時代の人々は、銅戈と銅矛に異なる意味を見出していたのでしょうか。

クニによって異なる青銅器の使われ方

九州内の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県で出土した約300点の鋳型のうち、およそ半数が須玖遺跡群とその近辺に集中しており、ここが青銅器生産の中心地であったことが分かります。

同じ福岡県内の伊都国でも青銅器鋳型は発見されていますが、奴国の須玖遺跡と比較すると圧倒的に少なく、伊都国では奴国ほどに青銅器生産は行われていなかったようです。伊都国と奴国は弥生時代中期後半以降の2大国として比較されることが多いですが、こと工業においては奴国がその中心であったのでしょうか。

須玖遺跡群内に眠る奴国の王は弥生時代中期後半の人物です。この地での青銅器の生産が隆盛を迎えるのも弥生時代中期後半です。青銅器の工房が王墓の近くにあることからも、王の主導で青銅器生産の強化が押し進められたことが想定されます。奴国の王は朝鮮半島や中国大陸との交易を盛んに行って青銅原料を多量に入手できるルートを確立したのでしょうか。安定的な原料調達体制が整ったことで、祭祀用の大量埋納の需要にも答えられるようになったのかもしれません。

奴国の丘歴史資料館では、青銅器工房跡で出土した多くの青銅器生産遺物を展示しており、奴国の青銅器生産体制の巨大さを伺い知ることができます

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