鶴岡八幡宮|鎌倉幕府を象徴する神社。源頼朝はなぜ"鎌倉殿"になれたのか?
源頼朝が鎌倉に入るまで
鎌倉幕府を創設した源頼朝はもともと鎌倉に住んでいた人物ではありませんでした。幼いころは京都におり、13才のとき政変(平治の乱1159年)に巻き込まれて伊豆国に流されてしまい、その後長きに渡って伊豆国内で逼塞していたのです。鎌倉のある相模国とは隣同士の国ですが、その間には険峻な箱根山があり簡単に移動できる道のりではありませんでした。
政敵として配流された頼朝ですが、厳しい監視下に置かれていたわけでなく、京都の状況や東国武士団の動向などの情報は入手できていたようです。また、頼朝の監視を任されていた伊豆国の在庁官人である北条時政とは、娘の政子と結婚したことで姻戚関係にすらなっています。伊豆では比較的自由に生活していました。
なぜこういうことができたかというと、頼朝が「河内源氏」の嫡流だったからです。「河内源氏」は河内国を根拠地とした源頼信を初代とし、2代目の頼義が東北地方の戦乱で武功を挙げたことで東国社会に地盤を築きました。3代目義家がそれを引き継いだことで「河内源氏」は東国の武士層が絶大な信頼を寄せる「血=ブランド」となります。伊豆の頼朝は初代頼信から数えて7代目とは言え、河内源氏の嫡流にあたる血が流れており、東国の武士層の中には頼朝を粗略に扱えない空気感があったとともに、京都の貴族層の中にも陰に陽に世話を焼く人物がいたのです。
そのような頼朝のもとに、1180年4月に以仁王(もちひとおう)から令旨が届きました。以仁王は後白河天皇の皇子でしたが、弟である高倉天皇からその皇子・言仁(安徳天皇)に皇位が移ったことで自身が即位する機会は完全に潰えてしまいます。そこで、皇位を簒奪するために安徳天皇を擁立する平家の打倒をもくろみ、令旨を発して全国の源氏に挙兵を呼びかけたのでした。
頼朝はすぐには動かずしばらく静観に徹しましたが、以仁王の反乱を征圧した平氏は各地で蜂起した源氏を討滅するため反撃を開始します。頼朝がこもる伊豆にも早々に平氏の指令が飛び、伊豆国の国守で平家方でもあった山木兼隆も動き出さそうとしていました。8月、もはやただ座してはおれなくなった頼朝は義父である北条時政らの協力のもと山木兼隆に夜討をかけ誅殺するに至ります。頼朝の動きはここから始まりました。
そもそもなぜ北条時政は協力したのでしょうか。それは頼朝が河内源氏の嫡流だったからだけではありません。12世紀の後半は東国にも平氏の力が及び始め、武士層の中には自分たちの所領が脅かされる一族が出始めていました。現に、在地武士層であった山木兼高は平家方に組みしたことで伊豆の国守に抜擢され、伊豆国内でにわかに勢力を得ることとなり、同じく在地の武士である北条時政などは山木に圧倒されるようになりました。そんな武士層にとって頼朝が挙兵し平家方を討伐することは利害が一致することになったわけです。
山木兼隆を滅ぼした頼朝でしたが、その後、石橋山の戦いでは惨敗し相模湾を船で渡って安房国に逃げ込みます。しかし房総半島で武士層を糾合しながら各地の戦闘に勝利し、そのたびに所領安堵(すでに所持している土地の権利を認めること)と新恩給与(新たに獲得した土地を分け与えること)を行い、安房→上総→下総→武蔵→相模と進み、10月には鎌倉に入ったのです。
鎌倉の都市開発と鶴岡八幡宮
鎌倉は河内源氏2代目の頼義が本拠地とした場所だったため、頼朝もここを拠点とし現在の清泉小学校周辺に大倉御所を建設します。清泉小学校の裏手には西御門(にしみかど)という地名が残っていますが、御所には東・西・南の三か所に御門が開かれていたようです。
また、海岸沿いの由比に立地していた鶴岡八幡宮を山手側の御所西隣に遷座することにしました。鎌倉には東西を結ぶ六浦道が走っていましたが、鶴岡八幡宮の移設にともない分断されてしまったため、東からの六浦道は南側に向きを変えます。その名残りが筋替橋の交差点になっています。
鶴岡八幡宮は八幡神(応神天皇、比売神、神功皇后)を祀る神社です。源氏と八幡宮のつながりは、河内源氏初代の頼信が石清水八幡宮にて八幡神を氏神として崇めたことから始まります。続く頼義が鎌倉に勧進して鶴岡八幡宮を創建するとともに、3代目の義家が石清水八幡宮で元服を挙げるなどして結びつきを強めていきました。
頼朝が遷座した八幡宮は1191年に大規模な火災があり、その再建により現在の上宮が配置されるようになったそうです。楼門奥の拝殿・幣殿・本殿は江戸時代に建立されたもので重要文化財に指定されています。現在の舞殿がある場所にはもともとは回廊が渡っていました。源義経の側妻・静御前がこの回廊で舞を見せたことから、後に舞殿が建立されたそうです。
また鶴岡八幡宮の参道である若宮大路は、1182年に政子が頼朝の長男となる頼家を懐妊した際に安産を祈願して頼朝が築いたものです。このあたりは湿地帯だったため、石敷きや土盛を行って一段高い段葛(だんかずら)を造る必要があり、いまでもその高まりが残っています。
鎌倉は頼義亡き後ただの漁村となっていましたが、大倉御所の建設や鶴岡八幡宮の遷座に合わせて主要な武士団も御所周辺に屋敷を建てはじめ、いまにつながる都市へと発展していったのです。
参考記事
石清水八幡宮|源氏ゆかりの八幡宮。清和天皇から起こる"河内源氏"
石清水八幡宮は京都府八幡市にある国史跡。平安時代に清和天皇によって創建された神社です。平安宮の鬼門(比叡山)に対して裏鬼門の男山に築かれました。清和天皇から起こった清和源氏によって崇拝され続け、源氏の末裔でもある徳川家光による社殿がいまも残っています。
源氏"鎌倉殿"のその後
鎌倉開発の途上、平家の軍団が東征を始め駿河国に進軍してきたことを聞いた頼朝は、富士川まで出陣しこれを撃退しました。そのまま京都まで進軍しようと勢いづく頼朝に対して、武士団たちは鎌倉に戻って東国支配を固めるよう進言したため、12月、頼朝は鎌倉に戻り完成なった大倉御所に入りました。こうして、頼朝は東国に確かな地歩を築き「鎌倉殿」と呼ばれるようになるのです。すべては1180年のおよそ半年のうちに起こったことでした。
ところで、頼朝が東国武士たちの所領を安堵したり新しい土地を与えたりしていた法的な根拠はなんだったのでしょうか。それは1180年4月に頼朝のもとに届いた以仁王の令旨でした。以仁王は8月にはとっくに討ち死にしていましたが、頼朝は令旨の有効性を主張しつづけ、東国の支配を勝手に進めていたのです。そのため、中央朝廷で用いられる年号は1180年の治承4年から、養和(1181~1182年)、寿永(1182年~)と改元されていきましたが、頼朝の鎌倉では一貫して「治承(じしょう)」を使い続けます。以仁王の令旨を御旗に掲げる以上、安徳天皇による改元を認めることができなかったのです。
しかし、1183年10月に東国の行政権を頼朝に与える朝廷からの正式な宣旨が出、頼朝の東国支配は名実ともに確かなものとなります。1185年には平家を壇ノ浦で滅した後、全国への守護・地頭の設置を朝廷に認めさ、1190年には位階をあげ公卿に列したことで政所(頼朝の家政機関)を正式に設置、1192年に征夷大将軍に任じられて頼朝の東国支配は完成しました。生涯のうち約20年間を伊豆で逼塞し、約20年間を鎌倉殿として君臨した頼朝は1199年に53才で死没しました。大倉御所跡の裏手の山に残る法華堂跡は頼朝の墓と伝わります。
頼朝には1182年に産まれた頼家と1192年に産まれた実朝の2人の男児がいました。頼朝没後、まず鎌倉殿となったのは頼家です。しかし頼家には棟梁としての資質が欠失していたのか、数々の問題を逸話に残し1203年に将軍職を剥奪されたうえ息子の一幡は殺され、本人も伊豆で監禁されたまま没します。
弟の実朝は3代目の鎌倉殿として将軍位に就き、母・北条政子や叔父・北条義時などの支援を受けながらよく幕政を治めます。しかし1219年に右大臣を拝任した際、昇任を祝って鶴岡八幡宮に拝賀したときに頼家のもう一人の息子・公暁(くぎょう)に斬殺されてしまいました。公暁は、父・頼家が幽閉された原因が実朝にあると信じており、その敵討ちとして実朝を誅殺したのでした。犯行の際、公暁は鶴岡八幡宮石段の脇にあったイチョウの大木の陰に隠れていたと言われます。
1180年に頼朝が鎌倉殿の地位についてから40年にも満たず、源氏将軍家は断絶してしまいました。以降は京都から将軍を迎え入れることとなり、執権職を世襲した北条家が幕府を支配する時代に入っていきます。
基本情報
- 指定:国史跡「鶴岡八幡宮境内」「若宮大路」
- 住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下
- 施設:鶴岡八幡宮(外部サイト)