臼杵磨崖仏|平安時代末期における地方荘園の浄土信仰
奈良時代に始まった荘園制は平安時代を通して発展を続け、院政期に頂点を迎えます。独立した小世界となった荘園内では、地方ごとに独特な景観や文化を育んでいきました。大分県臼杵市深田の地にも、臼杵荘と呼ばれる広大な荘園が広がっていたそうです。古代から中世に移り変わる平安末期の地方荘園で、都が流行した思想や地方に根付いた文化、庶民の想いが融合した結果、臼杵の地ならではの仏像が彫造されました。
荘園制の確立
院政期の荘園は、「領域型荘園」(または「寄進地系荘園」)と呼ばれ、田畑のみならず山野を含む一体的な領域が荘園の範囲とされました。複数の村を飲み込みながら、かなり広域な荘園が各地に設置されたようです。
このような荘園は、上皇や藤原摂関家などが「本家」として支配権を握り、彼らの息のかかった中級貴族である「領家」が仲立ちし、現地の在地領主が「荘官」として実質的な経営を担うという3層の支配体制のもとに成り立っていました。「寄進地系」と呼ばれる理由は、在地領主が租税を取り立てる受領(ずりょう)の支配から逃れるために受領よりも有力な貴族に田畑を差し出して権益を保護してもらう「寄進」を行っていたからです。
浄土思想の浸透
臼杵荘の「本家」は藤原摂関家の1つ、九条家だったと言われています。荘園内には「荘官」の館や「本家」に関わりのある寺社が建立されました。臼杵荘には延暦寺ゆかり天台宗の満月寺と日吉社が建立されましたが、これは九条家とのつながりが関係するそうです。
天台宗の寺院が建立された理由は九条家とのつながりだけではありません。平安時代後期は末法の時代に入っており、現世の救済は諦めて死後の極楽浄土を願う思想が都を中心に広がっていました。この浄土思想は主に天台宗延暦寺の僧から発祥し、浄土教として確立していきます。
こうした浄土思想は地方にも浸透していたようです。相次ぐ旱魃によって飢饉に苦しんでいた村民には極楽浄土への渇望が広がっており、浄土教寺院の建立が求められていたのではないでしょうか。在地領主や村の中心となる有力農民は私財を投じて浄土庭園を模した満月寺(まんがつじ)を建立したのかもしれません。
磨崖仏の造立
満月寺は浄土式庭園を模した造りになっていると推定される理由は、満月寺正面でいま広場になっている場所が当時水面だったことがわかったためです。満月寺から水面を挟んで西側には阿弥陀仏を中心に56体もの石仏が安置されていました。これが臼杵磨崖仏です。石仏群は大きく4群からなっています。
ホキ石仏第2群
実際の見学コースに沿って見ていきましょう。まずは、ホキ石仏第2群の第1龕からです。「ホキ」とは崖という意味、「龕(がん)」とは仏像を安置する窪みのことです。右から、観音菩薩、阿弥陀如来、勢至菩薩。中央の阿弥陀如来は丈六の仏像です。平安時代後期の作。
次に第2龕。九品阿弥陀(中央は坐像、両脇各4体は立像。内1体は頭部なし)の右脇には観音菩薩です。左脇にも何らかの菩薩があったと想定されています。
平安時代末の作。九品の阿弥陀如来が9体揃って現存する例は他には浄瑠璃寺(京都府)のみで、非常に貴重です。また、位置不明で出土していた不動明王は平成の保存修理のときに第2龕の今の位置に安置されました。
ホキ石仏第1群
第1龕では、中央に釈迦如来、両脇に阿弥陀如来と薬師如来、左右に観音菩薩と勢至菩薩(頭部欠損)。平安時代末の作。台座の丸い穴には願文や経巻を納めたものだと考えられています。平安時代末の作。
第2龕は阿弥陀如来を中央に、釈迦如来と薬師如来を脇侍に。左隅には愛染明王。阿弥陀三尊像は、臼杵磨崖仏全体の中で最も美しい仏像と名高く「間違いなく京都の仏師が彫った」と言われています。平安時代後期の作。
山王山石仏
三王山石仏は、中央に釈迦如来、両脇に薬師如来と阿弥陀如来。他とは異なる独特な表情をしています。平安時代後期の作。
古園石仏
古園石仏は金剛界曼荼羅を表現したものだと考えられており、大日如来を中央に据えた計5体の如来は、金剛界五仏(五智如来)とされています。
古園石仏群の入り口部分には金剛力士像。右側の阿形はよい状態で残っていますが、左側の吽形はほぼ剥落。この2体は鎌倉時代の作です。
古園石仏の周辺からは瓦や礎石が発見され、3間✕7間の覆屋があったことがわかっています。満月寺から広場(水面跡)を挟んで対面にもあたり、他の石仏よりも重要な空間だったのかもしれません。
石造の理由
これら臼杵の石仏は「阿蘇溶結凝灰岩」という岩石が使用されています。この岩石は、約9万年前に阿蘇山が噴火した際に九州の中部域(大分県や熊本県)を覆った火砕流が冷えて固まったものです。柔らかくて加工しやすく、軽くて運びやすいという特徴があったことから、九州ではこの岩石を使って多くの石造物が造られました。
日本人は石に神霊が宿ると考えており、古くから石を信仰の対象として扱ってきました。仏教が浸透するにつれ、特に密教においては石窟宗教や山岳宗教などに引き継がれながら石への信仰が継続していき、仏像の材料としても石が使われました。それが磨崖仏です。
奈良時代までは洞窟などの岩壁に仏像が線刻されていましたが、平安時代に入ると浮彫が徐々に増え、平安後期には丸彫が採用され始めます。中部九州には丸彫に適した阿蘇溶結凝灰岩があったことから、臼杵荘の仏像は木彫りではなく石仏になったのでしょう。
臼杵磨崖仏がなぜ、誰に作られたのかのは謎のままですが、加工に適した石材、荘園制の確立にともなう在地領主の成長、地方庶民への浄土思想の浸透など様々な要因があって造立されたのでしょう。この臼杵の地で、石仏たちは古代から中世へ時代が大きく転換するその狭間を見つめていました。
基本情報
- 指定:特別史跡「臼杵磨崖仏」
- 住所:大分県臼杵市深田
- 施設:臼杵石仏(外部サイト)