基肄城|大野城とともに築かれた古代最大の山城
白村江の戦いで大敗した大和朝廷は、唐軍による侵攻に備えなければなりませんでした。九州への侵略を防ぐため、まずは筑紫(北部九州)の防衛策を講じます。最初に作られたのが水城という巨大な堤防でした。さらに、大野城と基肄城という2つの山城が築かれます。
基肄城の築城
『日本書紀』の天智天皇4年(665年)の条には、秋8月に答本春初(とうほんしゅんそ)を長門国に派遣して長門城を築かせ、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に派遣して大野城と基肄城を築かせたことが記載されています。彼ら3人は百済の軍人で、白村江の敗戦によって完全に滅亡した百済から亡命してきていました。当時の大和朝廷は彼らのような亡命軍人の知識や経験を借りながら軍事拠点の整備を行いました。
基肄城の築かれた基山は、大宰府から南に伸びる古代官道が筑後と肥前に分岐する交通の要衝に位置する、標高404mの山です。大野城が大宰府政庁の北方に築かれたのに対して、基肄城はその南方に築かれ、ともに大宰府を防衛するための軍事施設でした。
石垣
基山に登る登山ルートの南側入口には、高さ8mの石垣遺構が残っています。この石垣は山裾へ降りてくる土塁と連続するように築かれており、基山の最も低い谷部を塞いでいます。古くは北の大宰府方面へ抜ける近道として利用されたり、現在も山頂の方につながる車道が通っていたりと、ここが基肄城への主要な入口であるとともに、敵の来襲も想定される場所だったのでしょうか。山の上から流れてくる川水を排出するために開けられた吐水口が残っており、いまでも川水が通流しています。
建物
水門跡の傍にある登山ルート入口から山中に入って少し登ると、5間×3間の建物跡が残る小広場があります。ここからは炭化米が出土したことから備蓄用の倉が建てられていたと想定され、米倉跡と呼ばれています。
登頂ルートの緩やかな尾根には斜面に張り付くように丸尾礎石群が残っています。ここでは5間×3間の規格化された建物跡がいくつものあったようです。こちらも備蓄用の倉庫だったと想定されています。
山頂付近には、10間×3間の大礎石跡が残っていました。基肄城内では最も大規模な建物跡で、基肄城の中心的な機能を担う施設だったと想定されています。そのほか、寺院施設が想定される鐘撞跡や貯水場が想定されるつつみ跡などが残っています。
土塁
山頂を中心に周辺一帯を囲うように全長4kmにも及ぶ城壁が築かれました。城壁を構成する土塁が山中に残っています。大規模なものは山頂から西面に築かれた西側土塁と、中腹にある東側土塁です。特に東側土塁では盛土の上を歩くことができます。安全に気をつけながら下を眺めてみると、土塁の外側はすでに急峻な地形になっていて、これをさらに強化するために構築されたことが分かります。建物の多さや土塁の強固さを見ると、基肄城がいざというときの籠城のために築かれたのではないかと思えます。
城門
城門の遺構は東北門と北帝門の2つで確認されています。東北門は、東側の谷部で土塁を切り割って築かれており、門扉柱の礎石と思われる石が残っているそうです(ただし、土嚢に埋もれて見えなかった)。北帝門は城の最北端に築かれ、石積みの一部が残っています。
そのほか、遺構は確認されていませんが、上述の水門石垣の東側(現在の車道)にも南門の存在が想定されてるほか、東南の谷部にも城門と思われる遺構が発見されているそうです(場所が分からず、見学できなかった)。
基肄城の城外
基山の麓には、平地部分を遮断するために築かれた土塁の一部が残っています。この「とうれぎ土塁」は南方から大宰府に向かう道を塞ぐように築かれており、北の水城と対をなす防御施設だったのかもしれません。両者は「版築」と呼ばれる百済由来の土木技術で築かれています。
JR基山駅近くの基山町立図書館には、基肄城の考古調査の出土物が展示されています。
こうして大宰府の南側には、大野城や水城と対をなすように基肄城と土塁が築造されました。しかし幸いなことに、唐と新羅が対立するようになったことで、唐軍による九州への侵攻は棚上げになり、以降唐軍が攻めてくることはありませんでした。その後奈良時代になると、基肄城は米などを備蓄しておく場所となり、周辺の国に備蓄米を班給していたようです。唐軍を想定した堅固な倉庫群は、このような形で後世に引き継がれ、いまに至ります。
基本情報
- 指定:特別史跡「基肄(椽)城跡」
- 住所:佐賀県三養基郡基山町 外
- 施設:基山町立図書館(外部サイト)
見学のポイント
水門石垣までは歩きやすい道路が通っていて、駐車場もあり。そこから上へは登山ルートに入り、通常の登山の装備が必要。山中には遺構の案内板も説明板もなく、登山道が入り乱れていてとても迷いやすいので注意。