海龍王寺|奈良時代の諸寺院 平城京で光明皇后ゆかりの寺院を巡る

飛鳥時代や奈良時代はまだまだ天皇の権威が高く、各時代の主要人物として挙がるのは天智や聖武など天皇の名前が多いことでしょう。皇后となると、後に天皇に即位した額田部皇女(敏達天皇の皇后。後の推古天皇)や鵜野皇女(天武天皇の皇后。後の持統天皇)などがよく知られる程度です。そんな中、奈良時代の超重要人物として名をはせた皇后が、聖武天皇の光明皇后(こうみょうこうごう)です。今回は主に奈良市内に残る光明皇后ゆかりの寺院を巡ります。

法隆寺東院 母・橘三千代から受け継ぐ仏教信仰

光明皇后は701年に藤原不比等(ふじわらのふひと)と橘三千代(たちばなのみちよ)の子として誕生しました。皇后になる前は、安宿媛(あすかべひめ)や光明子(こうみょうし)と呼ばれています。彼女の話に入る前にまずは母親である橘三千代の話をしておきましょう。

光明子家系図

三千代は天武天皇の時代から宮廷の女官として仕えており、美努王(みぬおう)という皇親に嫁して佐為王(さいおう)などをもうけます。その後、理由は不明ですが美努王とは離別し、藤原不比等と再婚しました。引き続き女官として持統→文武→元明の歴代天皇に仕え、その功績を認められて元明天皇から「橘」の氏の名を賜ります。

それまでの氏は「県犬養(あがたのいぬかい)」で、この氏族の本拠地は仏教信仰の盛んな河内国古市郡と見られており、三千代は幼い頃から仏教と近い環境で育ってきました。その信仰心は、元明太上天皇が病に倒れた際に平癒を祈って出家したほどです。法隆寺の大宝蔵院で見学できる阿弥陀三尊像厨子は三千代のものと言われ、さらに法隆寺西円堂も三千代の寄進によるものと伝わっており、三千代の強い信仰心を示しています。

法隆寺西円堂■国宝・鎌倉時代

このような母親に育てられた光明子も仏への帰依を深めていました。のちに彼女は日本史に残る仏教事業を実現するとともに、平城京内に多くの寺院を建立していきます。ちなみに、法隆寺と橘氏との関係は三千代にとどまらず、光明子は法隆寺東院の建設のために多大な寄付をしました。東院伽藍の中心である夢殿はこのときの建築が現存したものです。

法隆寺東院夢殿■国宝・奈良時代

また三千代の孫娘である橘古那可智(こなかち)も自身の邸宅を法隆寺に寄進し、東院の伝法堂として現存しています。

法隆寺伝法堂■国宝・奈良時代

海龍王寺 父・藤原不比等から受け継ぐ財産

父親である藤原不比等は当時絶大な権力を持っていた最上層の官人で、元明天皇のもと平城遷都の事業を推進した責任者でもありました。そんな彼は京内でも一等地にあたる平城宮東隣の土地を与えられ、そこに邸宅を構えます。妻の三千代も娘の光明子もこの邸宅に住んでいたようです。

716年、不比等は光明子を首皇子(のちの聖武天皇)に嫁がせることに成功しますが、即位を見る前に没してしまいます。724年に首皇子が無事に即位したあと、729年に光明子は複数の妃の中からただ一人正式に皇后になりました。これはとても画期的なことで、これまでは皇族の女性しか皇后になれませんでしたが、人臣の娘が初めて皇后となったのです。不比等から相続していた邸宅は皇后宮となり、光明皇后はそのままそこを居所としたようです。

それにともない、皇后宮職という機関が新設されます。これは不比等から相続した莫大な財産を管理する組織で、彼女はこの機関を活用して数多くの仏教施策を実行に移していきます。ちなみに、この時代はまだ皇后も平城宮内に住まいがあったわけでなく王宮に外に住んでいました。

海龍王寺・法華寺|奈良市役所(想定復元模型)
北から南を向いて撮影した図。中央の二塔伽藍が法華寺。ここはもと皇后宮の敷地で、その左下(宮の北東隅にあたる)の寺院が海龍王寺。

もともと不比等の宅地には平城京建設以前から寺院のようなものがありました。不比等はそれを取り壊さずに平城京の設計をしたため、このあたりの道路はいびつな形状となり、いまでもその痕跡が残っています。寺院は不比等の宅地に取り込まれたようです。

海龍王寺西金堂■重文・奈良時代
鎌倉時代に大規模な改造を受けており部材は入れ替わっているものの、様式は奈良時代のもの。内部に五重小塔(国宝)が現存。

光明子は皇后となってすぐにこの寺院を整備しなおし、735年に唐から帰国していた玄昉を呼び寄せて初代住持としました。この寺院がいまの海龍王寺です。皇后宮の東北隅にあったことから、奈良時代には「隅寺」「隅院」などと呼ばれました。西金堂とその内部にある五重小塔はこの時に建立されたもので、現存しています。創建当初は南側の門から回廊が左右に延びて西金堂と東金堂を取り囲み、中金堂に繋がる荘厳な伽藍でした。中金堂は現在の本堂の下にあり、東金堂の遺構も発見されています。東金堂の中にも五重小塔があったようです。

海龍王寺本堂■奈良市指定有形文化財・江戸時代
海龍王寺東金堂跡

法華寺 夫・聖武天皇と協働で進める仏教施策

海龍王寺の初代住持となった玄昉は、唐から大量の経典を持ち帰っていました。光明皇后は734年に亡くなった母・三千代らの菩提を弔うため、玄昉の経典集をすべて書写するという大規模な写経事業を開始します。必要な予算は皇后宮職から拠出され、場所は海龍王寺が選ばれました。740年5月1日付の光明皇后の願文で事業が始まったことから、完成した経典一式は「五月一日経」と呼ばれます。これが日本で最初の正式な写経事業で、以降「五月一日経」は写経の原本になりました。

夫である聖武天皇は、光明皇后の影響を受けたのか仏教信仰に傾き、仏による鎮護国家を願って夫婦協力して仏教施策に取り組むようになります。代表的なものが各国に国分寺・国分尼寺を建立する事業です。これら国分寺を総括するための総国分寺として東大寺の建立も始まり、やがて大仏造立の事業とも重なり「奈良の大仏」へと結実していきます。一方、総国分尼寺は光明皇后の発願によって皇后宮内に建立され、これがいまの法華寺になりました。

法華寺南門■重文・安土桃山時代
門奥に見えるのが本堂(重文)。

現在の寺域は創建時から大幅に縮小してしまっていますが、当初の中心伽藍は現南門よりさらに南側に建っていたそうです。奈良時代の現存建築などは残っていませんが、光明皇后自ら千人の垢を流したと言われる浴室(からふろ)が伝わっています。通常は僧侶だけが用いる浴室ですが、法華寺においては異例にも広く庶民に開かれていたということから、有形民俗文化財として国の指定を受けています。

法華寺浴室■重要有形民族文化財・江戸時代

新薬師寺 光明皇后が残した奈良時代の宝物

このころから聖武天皇は病気がちとなり、その平癒を祈って光明皇后は春日山山麓に新薬師寺を創建することになります。新薬師寺も長い年月の中で寺域は縮小してしまっていますが、かつては西側にも寺地が広がり、奈良教育大学付属小学校の校庭から金堂と見られる大型建物の遺構が発見されています。

新薬師寺|奈良市役所(想定復元模型)

現在の本堂は奈良時代の現存建築物ですが当時の金堂ではなく、新薬師寺内の堂宇の1つでした。本尊の薬師如来像は、仏像にしては見開きすぎている眼が「聖武天皇の病は眼病だった」とする逸話を生んだほどですが、平安時代初期頃の作と見られています。本尊を取り巻く十二神将像は創建時のものです。

新薬師寺本堂■国宝・奈良時代
創建時の金堂はここから西側にあり、現本堂は仏堂の1つ。

その後、聖武天皇は756年に没し、光明皇后は天皇の遺品を東大寺の正倉院に奉納します。これは現代にも良好な状態で残り「正倉院宝物」として定期的に公開され人気を博しています。光明皇后による仏教への深い帰依がなければ、おそらくここまで奈良時代の文物が現代に伝わることはなかったでしょう。その4年後の760年、光明皇后も60歳でこの世を去りました。光明皇后の名は奈良時代史に燦然と輝き、ゆかりの寺院の多くがいまでも法灯をつないでいます。

基本情報

  • 指定:国史跡「法隆寺旧境内」「法華寺旧境内」、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
  • 住所:奈良県奈良市法華寺町 外
  • 施設:法隆寺海龍王寺法華寺新薬師寺(外部サイト)