慈照寺|東山山荘の観音殿と東求堂。政治は二流でも作庭は一流の足利義政

守護家の家督問題に介入するも、大乱を招く

1443年(嘉吉3年)、足利義政はわずか8歳で足利将軍家の当主(室町殿)となりました。1449年(文安6年)に元服し将軍職に就きましたが、実際に政務を執るようになったのは1455年(康正元年)頃からと言われます。とはいえ、内向的な性格で周りに流されやすくもあってか、政治的な才覚はほとんどありませんでした。義政は自らの求心力を高めるため守護家の家督問題にたびたび介入しましたが、どれもこれもうまくいかず、やがて応仁・文明の乱(1467~1477年)を誘発させてしまうのでした。

足利義政が失敗した介入の1つが、斯波氏の家督問題です。斯波氏は、幕府管領(かんれい)に就く三氏(三管)のうちの1つで、足利氏に連なる伝統的な守護家。義政が政務を見始めたころは、義敏(よしとし)が斯波家当主となっていました。1459年(長禄3年)、足利義政は命令に従わなかったことを理由に義敏を周防に追放し、強引に息子の義寛(よしひろ)に家督を継がせます。それもつかの間、1461年(寛正2年)には斯波氏の遠縁にあたる渋川氏から義廉(よしかど)を呼び、斯波家当主に据えました。しかし、義廉の利用価値がなくなると、1466年(文正元年)に義敏を周防から呼び戻し当主として復権させ、その2か月後には再び義廉に家督を継がせ管領に就任させました。義敏・義寛の父子(東軍)と義廉(西軍)は対立を深め、そのまま応仁・文明の乱へと繋がっていきます。

足利義政のもう1つの失敗が畠山氏の家督問題への介入です。畠山氏も三管のうちの1つで、当時最も有力な守護家でした。1450年(宝徳2年)、義政は、畠山氏当主として義就(よしひろ)を指定しましたが、1452年、それに不満を持った義富・政長の従兄弟との内紛により義就は京都を追われ、義政は義富の家督継承を渋々認めることになります。しかし、その2年後の1454年に今度は義富が京都を追放され、京都に呼び戻された義就が家督を継ぎます。その後、義就の行動に不信感を募らせていった義政は、1460年(寛正元年)に義就を追放し、代わって政長を家督として認めます。京都から離れた義就は徹底の抗戦の構えを見せたため、義政は政長に義就追討を命じますが、この戦争は泥沼化していきました。

7年後の1467年(文正2年、後に応仁元年)、足利義政は、恒例であった畠山政長邸への御成を突如取りやめ、畠山義就を京都に呼び寄せて謁見したかと思えば、政長を管領職から罷免したことで、政長(東軍)と義就(西軍)の対立は京都市街戦に入っていきます。義政はいまさらになって畠山家の内紛に介入しないように諸大名に指示しますが、時すでに遅く、斯波家のほか様々な家の内紛が絡み、様々な守護大名が両派に分かれて連立したことで、とうとう応仁・文明の乱が勃発するのです。この大乱によって、京都は焼土と化してしまいました。

義政の終の棲家、東山山荘

斯波家や畠山家の家督問題で足利義政があっちについたりこっちについたりしたのは、自らの情勢判断のもとに行ったのではなくは、母や妻、時の側近や有力守護たちの思惑に左右された結果だったと考えられています。幼くして父を亡くした義政は帝王学を学べずに育ち、周囲の意見に左右され、なんの見通しもなく行動していくしかできなかったようです。自らの政治的不覚を悟った義政は、大乱の最中である1473年に引退を決意し、息子・義尚(よしひさ)へ将軍職を譲りました。

その後、もともと好んでいた風流で文化的な生活を実現するため、1482年から京都東郊に東山山荘の造営を始め、翌年にはここに移りました。この東山山荘は義政の死後に慈照寺として禅寺の形態に改められましたが、当時は会所(かいしょ)や常御殿(つねのごてん)などを持つ室町時代に典型的な将軍御所の形態でした。その中で、観音殿と東求堂が現存しており、ともに国宝に指定されています。

観音殿■国宝・室町時代
二層の楼閣建築。義政は完成前に没した。
東求堂■国宝・室町時代
義政の持仏堂として建立された。扁額は義政の筆による。

観音殿(かんのんでん)は二層の楼閣建築で、1階は書院風の造りで「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれ、2階は唐風の仏殿で「潮音閣(ちょうおんかく)」と呼ばれます。

観音殿■国宝・室町時代
銀閣と呼ばれるようになるのは江戸時代から。建築当初は銀箔ではなく黒漆が塗られていた。

現在「銀閣」と呼ばれますが、この名称が付いたのは江戸時代からで、当時は銀箔は貼る予定があったかどうかも定かではありません。近年の調査から上層の外壁には黒漆や彩色が施されていたことが分かり、復元された外壁の模型が、売店のそばに展示されています。

観音殿上層外壁|銀閣寺売店横(復元模型)
壁面には黒漆が塗られ、組物や垂木などには彩色が施されていた。

東求堂(とうぐどう)は、もとは現在の向月台(こうげつだい)の場所に建っていたとされ、江戸時代になっていまの場所に移ったと見られています。内部は4部屋からなり、奥東側の四畳半の部屋は義政の書斎で「同仁斎(どうじんさい)」と呼ばれます。最古の書院造として有名なだけでなく、半畳の下には炉があり、茶の湯はここから始まったとも言われます。手前西側の部屋には阿弥陀如来像が安置されており、義政が禅的な思想だけでなく、浄土思想も持ち合わせていたことを物語ります。

東求堂■国宝・室町時代
檜皮葺入母屋造り、一層の書院。内部は4部屋に分かれている。

義政は東山山荘において庭園づくりには特に力を入れました。東山山荘の庭園は上段と下段の2段からなり、下段は錦鏡池を中心とする池泉回遊式の庭園です。樹木や庭石などは京都や奈良などの大寺院から良質なものを献上させたそうです。残念ながら、庭石の多くは戦国時代に持ち出され、池の形も江戸時代に改変されたそうですが、観音殿や東求堂を借景にした庭園の姿からは現在でも”詫び”の風情が漂っています。

錦鏡池に浮かぶ仙人洲
錦鏡池に浮かぶ白鶴島

上段は山荘の東側山腹に作庭された枯山水の庭園。露頭した岩盤に景石を組んだ庭園で、発掘により出土した義政当時のものが見られます。付近には「お茶の井」と呼ばれる湧水の石組も造られていました。義政はここで茶を点てたと言われ、この庭園が茶室に伴う露地へと繋がっていくと考えられています。

漱蘇亭跡枯山水
枯山水の作庭には西芳寺が参考にされたと言う。
お茶の井
湧水を囲む石組。この水で茶が点てられた。

足利義政は、東山山荘の完成を見ることなく1490年(永徳2年)に没し、山荘は禅寺に改められ慈照寺となります。戦国時代の戦火により多くの堂宇が焼失し、境内全体が荒廃しますが、江戸時代になって復興され、現在写真スポットとなっている向月台や銀沙灘(ぎんしゃだん)が整備されたそうです。観音殿は「銀閣」と呼ばれるようになり、いまでは寺の名称も「銀閣寺」と通称されます。

東山文化が花開いた室町時代が終わり、天下は戦国の乱世へ

政治的な才能はほとんど開花しなかった義政ですが、文化面では多大な貢献を果たしました。茶、花、水墨画といった現在の日本文化の源流を成す要素は、この東山山荘を中心に形成された東山文化から発展します。自らが引き起こした応仁・文明の乱によって京都市街地の建造物がほとんど焼失したことで、乱後に建立された義政の観音殿と東求堂は、結果的に、貴重な室町建築として京都のシンボルとなりました。

京都市街地と慈照寺境内|銀閣寺展望所から西側を撮影
右手前から、東求堂、方丈(もと会所)、庫裏(もと常御所)。当時、ここから見える京都市街地は焼け野原になっていた。

慈照寺の庭園は、現在、特別史跡と特別名勝の二重指定を受け、人気の観光スポットにもなっていますが、義政が持つ造園への深い知識は当時から高く評価されていたようです。そのことを示す逸話として、相国寺を訪れた義政が小庭に梅の木が一本植えられているのに目を留めて、「四角い庭に木を一本だけ植えると、困窮の『困』の字になってしまうのでよろしくない。梅の木を2本植えるのがよかろう」と言ったというエピソードがあります。義政が、瞬時に庭の全体像を把握し、作庭のタブーを犯していることを指摘できるほど、庭園についての見識を持ち合わせていたということです。

しかし、足利義政のときには室町将軍家はすでに困窮の始まりを見せていました。応仁・文明の乱を経て、世の中は荒れ、各地からの年貢の未進が続き、幕府の財政は厳しい状態にありました。東山山荘の造営は、将軍家の私財だけでは当然足りず、幕府は各国に税を課して、8年もかけて造営を続けたのでした。

9代義尚以降は、これまで歴代の将軍が収集してきた「東山御物」を売却して生活を維持することになります。将軍家の権威は地に落ち、もはや各地の戦乱を抑えることができなくなりました。こうして時代は本格的な戦国時代へ入り、室町将軍に代わる新たな権威が求められるようになるのです。

基本情報

  • 指定:特別史跡・特別名勝「慈照寺庭園」、史跡「慈照寺旧境内」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市左京区銀閣寺町
  • 施設:銀閣寺(外部サイト)